【鎌倉時代概略】
鎌倉時代は(1185~1333)、最初の「武家政権」として、源頼朝が開くが、
源氏の将軍は3代で終り、北条氏に乗っ取られる。北条家による執権政治の
最盛期には「御成敗式目」など、法律が作られる。その後、外圧の元寇
(モンゴル襲来)で疲弊し、徐々に幕府は力を失っていき、滅びる。
鎌倉時代(1185年~1333年)の基本年表
(1180年 侍所11さむらいどころ(御家人の統率・警察組織)が鎌倉に作られる)
(1184年 公文所10くもんじょ(鎌倉幕府の文書作成・財政機関)→1190年政所11に改称
(1185年 平家(平氏)滅亡:壇の浦の合戦)
1185年 源頼朝が守護・地頭の任命権を朝廷から得る(鎌倉幕府)
1189年 源義経が藤原泰衡に平泉で討たれる
1190年 政所(まんどころ)11(公文所を改称して作った)
1192年 源頼朝が征夷大将軍に
1203年 執権政治がはじまる:北条時政
1219年 源実朝殺される(源氏が滅ぶ)
1221年 承久の乱(幕府vs後鳥羽上皇)@京都→六波羅探題がおかれる
1232年 御成敗式目の制定(北条泰時)
1274年 元寇(げんこう)①:文永の役(「てつはう」を利用):北条時宗
1281年 元寇②:弘安の役:北条時宗
1297年 永仁の徳政令:北条貞時
1331年 楠正成が挙兵
同年 吉田兼好の『徒然草』ができる
1333年 鎌倉幕府が滅びる
鎌倉時代(1185年~1333年)の中学受験用ポイント
政治:源氏→北条家(執権)→元寇で衰退→鎌倉幕府滅びる
1 源氏の征夷大将軍は3代で滅びる:源頼朝→源頼家→源実朝
2 (頼朝の妻・北条政子)北条家が力を持つ→北条氏が執権になり執権政治を始める
3 承久の乱(1221年):幕府(政子)vs京都の朝廷(後鳥羽上皇)→幕府が勝つ
4 1232年「御成敗式目」(北条泰時):(北条家の)執権政治最盛期
5 元寇(モンゴル襲来):1274年・文永の役、1281年・弘安の役→幕府衰える
6 1333年鎌倉幕府滅びる←反幕府勢力台頭:楠正成・後醍醐天皇・足利尊氏etc
7 鎌倉時代の文化:新仏教
まずは上記の「基本年表」と「中学受験用のポイント」だけを
読んで、ある程度頭に入ってから下記の詳細を読んでいってください。
1 源氏の征夷大将軍は3代で滅びる:源頼朝→源頼家→源実朝
【源氏の将軍語呂合わせ:(より)とも(より)いえさ(ねとも)!・源頼朝→源頼家→源実朝】
源頼朝11(1147~99・征夷大将軍としては1192年~99年)
源氏の棟梁。鎌倉幕府(1185年)。征夷大将軍(1192年~99年)。鎌倉殿。
源義朝(よしとも)の子供。平治の乱(1159年)後、伊豆に流罪。
1180年以仁王(もちひとおう)に応じて伊豆で挙兵。鎌倉を拠点にする。
弟の源義経11と源範頼11を使って、源義仲〔木曽義仲)を滅ぼし(1184年)、
さらに1185年平氏も滅ぼす(これも弟二人・・・)。
1180年 侍所11さむらいどころ(御家人の統率・警察組織)が鎌倉に作られる
1184年 公文所10くもんじょ(鎌倉幕府の文書作成・財政機関)
1185年、守護・地頭11の任命権を後白河上皇に認めさせる(鎌倉幕府)。
1190年 政所(まんどころ)11(公文所を改称して作った)
1192年征夷大将軍11になる。1199年死去(死因不明『吾妻鏡』)。
守護11:鎌倉幕府の軍事・警察権力。有力な御家人11がついた
・大犯三カ条(だいぽんさんかじょう)11:逮捕権。謀反人の逮捕11、殺害人の逮捕11、大番催促11
地頭(じとう)11:土地管理・税(年貢)の取立て(「泣く子と地頭には勝てぬ」)
・兵粮米(ひょうろうまい)9:戦乱期に農民に課した米(年貢)
・地頭職(じとうしき)7:地頭の権利(うまみ・既得権)
御家人(ごけにん)11:将軍の家人(家来と思って良い)。御家人以外の武士は非御家人3。
・「御恩」10と「奉公」11
御恩10:本領安堵(先祖の土地を保証)10、新恩給与(守護・地頭などの職を与える)10
奉公11:京都大番役11(皇居警護)・鎌倉番役10(幕府警護)・軍役(ぐんやく)「いざ鎌倉!」
●源頼家(在位1202~03)11:頼朝の子ども。鎌倉幕府二代目将軍(実権なし)
母・北条政子11と祖父北条時政11に抑えられる(13人の合議制7)。伊豆の修禅寺9に幽閉、暗殺。
●源実朝(さねとも・在位1203~19):頼朝の子供。頼家の子供(公暁10くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺される
『金槐和歌集』(きんかい)11を作った。
【源氏の将軍語呂合わせ:(より)とも(より)いえさ(ねとも)!源頼朝→源頼家→源実朝】
2 (頼朝の妻・北条政子)北条家が力を持つ→北条氏が執権に→執権政治を始める
1199年の頼朝が死んだ頃からすでに北条家・北条政子11が力を持っていた。
北条政子11(1157~1225・尼将軍2):源頼朝の妻。北条時政の娘。
源頼朝の死後(1199年)に尼となって権力をふるい、「尼将軍」と言われる。
承久の乱(1221年)の「北条政子のよびかけ」4は有名。
北条時政11:初代執権。北条政子の父。源頼家(2代目将軍)を殺害。
執権11:院政の実務担当である長官(別当)の別称。北条氏の地位を指すようになった。
執権政治11:執権北条氏による鎌倉幕府の体制。1203年北条時政が初代。北条氏の世襲になる。
源頼朝→源頼家→源実朝の三代で源氏の征夷大将軍が途切れた後も、「征夷大将軍」
がいなくなったわけではなく。鎌倉幕府が滅びるまでお飾り的に存在した。
(【源氏の将軍語呂合わせ:(より)とも(より)いえさ(ねとも)・源頼朝→源頼家→源実朝】)
●摂家将軍(せっけしょうぐん)9:源氏将軍が途絶えた後、摂関家から迎えられた将軍。
藤原将軍7とも言われた。
藤原頼経(よりつね)9:鎌倉幕府第4代将軍(在位1226~44)。初の摂家将軍。
●皇族将軍9:摂家将軍の後、皇族が将軍になった。北条時頼の時代。
宗尊親王(むねたかしんのう)11:鎌倉幕府第6代将軍(在位1252~66)。北条時頼の時代。
鎌倉時代の主要執権一覧と主要項目(セットで覚える)*基本は7人(全部で16人)
1代 北条時政11(在位1203~05):初代執権。北条政子の父。源頼家(2代目将軍)を殺害。
2代 北条義時11(在位1205~24):承久の乱(1221年)の時の執権。六波羅探題。時政の子供。
3代 北条泰時11(在位1224~42):承久の乱で活躍。御成敗式目制定。執権政治最盛期。連署・評定衆
5代 北条時頼11(在位1246~56):宝治合戦9で三浦泰村8を滅ぼす。引付衆11。皇族将軍を据えた。
(6代 北条長時2(在位1256~64):日蓮を流罪にした。)
8代 北条時宗11(在位1268~84):元寇(文永の役・弘安の役)の時の執権。
9代 北条貞時7(在位1284~1301):霜月騒動9→得宗専制支配へ。永仁の徳政令。
14代 北条高時10(在位1316~26):後醍醐天皇を隠岐に流す。新田義貞に敗れる。北条氏最後の得宗。
【鎌倉時代の執権(7人)の語呂合わせ】
時(時政)に政子、 正義(義時)は泰(泰時)より(時頼)宗(時宗)を定め(貞時)たか?
3 承久の乱(1221年):鎌倉幕府vs京都の朝廷→幕府(北条氏)が後鳥羽上皇を滅ぼす
二代目執権・北条義時11(在位1205~24)の頃、朝廷(京都)では、
後鳥羽上皇11(院政1198~1221)が復権(幕府を倒す)の機会を
うかがっていた。
【後鳥羽上皇11(院政1198~1221):承久の乱+『新古今和歌集』】
承久の乱(じょうきゅうのらん)11(1221年):幕府(政子)vs京都の朝廷(後鳥羽上皇)→幕府が勝つ
【承久の乱の前】
・西面の武士11:上皇直属軍。旧来の北面の武士は公家も含むが、西面は鎌倉御家人が中心。
(源氏最後の将軍・源実朝が公暁に暗殺されると「よしいける」と後鳥羽上皇は判断)
・北条義時追悼の命令11:1221年後鳥羽上皇が鎌倉幕府(北条氏)に宣戦布告。
・「北条政子のよびかけ」4で鎌倉幕府側は結束して、承久の乱に勝利。戦場は京都。
【承久の乱の後】
・後鳥羽上皇は隠岐11(現・島根県の島)に流され、死ぬまでそこにいた。
順徳上皇9(後鳥羽の息子)は佐渡に、土御門上皇9は土佐に。
・六波羅探題11:朝廷の監視の役所。北条泰時(3代目執権)が最初は勤めた。
・新補地頭(しんぽじとう)9:幕府の御家人がいなかった西の荘園に派遣された地頭
新補率法9:新補地頭の役得。
【承久の乱(1221年)を経て、幕府の全国支配・執権政治は強まる事になった】
4 1232年「御成敗式目」(北条泰時):(北条家の)執権政治最盛期
北条泰時11(在位1224~42)
3代目執権。義時(2代目執権)の子供。執権政治最盛期。
・承久の乱(1221年)で幕府軍の総大将
・初代・六波羅探題(北方)
・執権就任後、連署・評定衆・御成敗式目
連署11:1225年。執権の補佐役。執権と連盟で署名した。北条氏一門が任命された。
評定衆11:1225年。「みんなで決める」。最初は11人。北条氏と有力御家人。評定6
御成敗式目(貞永式目)(1232年)11:日本最初の武家の法律。北条泰時。
・51ヵ条:武家社会の道理、御家人の権利・義務、所領相続の規定etc.
・御成敗式目は「武家法8」なので武家社会のみに適用(公家、荘園などは別)
・道理7:武家社会の慣習や道徳。「武家のならい、民間の法」
・先例9:慣例。源頼朝時代の判例、方式のこと。
・泰時消息文8(やすときしょうそくぶん):御成敗式目について書いた泰時の手紙(弟宛)。
・式目追加7:必要に応じて法律を追加した
公家法8:朝廷を中心とした法律。
【御成敗式目(1232年)の語呂合わせ:ひと(1)ふ(2)み(3)に(2)御成敗式目】
(昔からあった慣習法を「一つの文にまとめた」のが御成敗式目なので)
その後、第5代執権・北条時頼11(在位1246~56)の1247年には、有力御家人の
三浦泰村8を鎌倉で滅ぼし(宝治合戦9)、引付衆11(評定衆の補佐+
裁判の迅速化)が置かれた。さらに、摂家将軍を廃して、皇族将軍9(宗尊親王
(むねたかしんのう))が置かれ、北条氏の独裁が強まっていった。
(が、その後直ぐに、蒙古(モンゴル)が襲来して(元寇)、鎌倉幕府の衰退が
迫っている事をまだ誰も知る由もなかったのである……)
5 元寇(モンゴル襲来):1274年・文永の役、1281年・弘安の役→幕府衰える
元寇(蒙古襲来)は、度重なる朝貢(服属)の要求を鎌倉幕府
(北条時宗)が無視したので、世界最強のモンゴル軍が、二回
(1274年・文永の役、1281年・弘安の役)にわたって九州地方
に攻めてきた事件。「神風」(台風)が吹いて日本は辛くも助か
った(侵略されなかった)が、元寇後、鎌倉幕府は一気に弱体化
した。
【元寇の受験勉強上のポイント:基本事項が整理されていれば大丈夫】
・文永の役と弘安の役の順番(「文が先!」1274年と1281年)
・元のトップ→フビライ・ハーン
・元軍の「てつはう」(火薬+鉄)戦法
・日本の執権は北条時宗
・元寇に勝った(負けなかった)が、鎌倉幕府衰退の原因になった
【モンゴルについて】
・モンゴル(蒙古)11:チンギス・ハーン(1167~1227)がモンゴル帝国を建国
チンギス・ハーンの死後、元など4ハーン国に分裂
・フビライ・ハーン11:1215~94。元の初代皇帝(世祖)。チンギス・ハーンの孫。
元寇で日本侵略を試みるが失敗。
・元11:1271~1368。フビライが建国。都は大都10(現・北京)。モンゴル至上主義。
【日本側】
北条時宗11:元寇(文永の役・弘安の役)の時の執権(第8代・在位1268~84)。
元から従うように求められるが無視→攻められる→神風(台風)吹く
【元寇の内容】
【元寇の語呂合わせ:「「文」が先」。文永の役と弘安の役】
・文永の役11(1274年10月):元と高麗の軍3万弱が対馬・壱岐を経て博多
に上陸。「てつはう」11(火薬8を鉄で包んだもの)。日本はまだ、「や~や~
我こそは~~」という前近代的な戦いだったので、一気に攻め込まれ、大宰府
まで退いたが、
(元軍による「てつはう」を使った攻撃)
(おそらく台風の)暴風雨で元軍は撤退した。
「文永の役(1274年)」でびびった鎌倉幕府(北条時宗)は、博多湾の沿岸に
【石塁(せきるい・石築地)8:石、砂、土で防塁を築く】を作り、異国警護番役11
を強化。
文永の役後、南宋を滅ぼした元のフビライは、再度日本を攻める!
・弘安の役11(1281年6月~7月):約15万人の大軍で元は、博多湾を
攻めた。東路軍8(朝鮮半島から)、と江南軍(中国南部から)8に分かれて
攻めてきた。
またしても、【神風】(暴風雨)が吹き、元軍は撤退した。
【元寇の語呂合わせ:「「文」が先」。文永の役と弘安の役】
鎌倉幕府は、元寇に負けなかったが、外国勢力との戦いで、何かを
得られたわけではないので、活躍した御家人に褒美も土地も与えら
れず、結果として、元寇は鎌倉幕府衰退から滅亡への端緒となる
事を、まだ誰も知る由はなかった・・・・・・。
6 1333年鎌倉幕府滅びる←反幕府勢力台頭:楠正成・後醍醐天皇・足利尊氏etc
元寇(1274年・1281年)後、鎌倉幕府は弱体化する。
理由は、活躍した御家人に褒美や土地を与えられなかった事や、北条家内部で
執権よりも、得宗家11(とくそうけ:北条本家)による専制政治が強まり、
不満がたまっていったことなどである。
経済的に窮した御家人などを救うために、北条貞時の1297年に永仁の徳政令11
(借金帳消し)をだしたが、焼け石に水であった・・・。
同時に、幕府に従わない、新興の武士「悪党」11などが出現し、鎌倉幕府の
力はますます弱まっていった。
・鎮西探題9(ちんぜいたんだい):1293年。元の襲来に備えて博多に派遣された役人
・得宗11(とくそう):北条氏の「本家」。二代目義時の法名「徳宗」7に由来。
・得宗専制政治11:執権や評定衆は形だけになっていき、得宗家が専制支配。
・御内人(みうちびと)11:得宗家内部の家臣。御家人よりも力を持っていく。
・内管領(うちかんれい)8:御内人(みうちびと)の代表
・霜月騒動9:1285年。北条時宗の死後、北条貞時7の時代に、内管領の平頼綱9
によって、有力御家人の安達泰盛9が滅ぼされた事件。得宗専制支配へ。
・北条貞時7(在位1284~1301):霜月騒動9。永仁の徳政令(1297年)。得宗専制支配
・永仁の徳政令11(1297年):北条貞時。日本最初の徳政令(要するに「借金帳消し」)。
御家人を救うためにやったが、すぐに一部を撤回するなど効果はあまりなかった。
・悪党11:半グレ集団。「党」は武士集団の事。畿内(播磨・兵庫県南西部)などに多かった。
奇抜な格好をするものも。荘園の反領主的な武士・荘民とその集団。楠正成11も悪党出身。
悪党が活躍し、得宗専制政治が進むところに出てきたのが、
後醍醐天皇11(ごだいご・在位1318~39)
倒幕を企て、「正中の変」9(1324年)「元弘の変」9(1331年)を起こす。
倒幕計画は失敗に終り、隠岐11に流される(1332~33)が、この乱をきっかけ
に、北条氏に反発する勢力(「悪党」や寺社など)が反幕府で立ち上がった。
「悪党」出身の楠正成(くすのきまさしげ)11らが反幕府活動を展開。
幕府は足利高氏(後の「足利尊氏」)等を派遣。
しかし足利高氏は、途中から幕府を裏切り、後醍醐天皇を助け、京都の
六波羅探題11を攻め落とす。
関東の御家人・新田義貞11は鎌倉を攻めて、1333年、北条氏を滅ぼす。
北条高時10の時に鎌倉幕府滅亡11。
高氏は後醍醐天皇に褒められ、名前の一字をもらい、「足利尊氏11」と名のる。
(幕府側の時は、北条高時の「高」をもらい、「足利高氏」だった)
騎馬武者像(足利尊氏ではない説が有力) 足利尊氏像
【鎌倉幕府の滅亡11の状況(1333年5月)】
・足利尊氏が六波羅探題(京都)を攻める
・新田義貞が鎌倉を攻める(北条高時以下、北条氏800人が東勝寺で自殺!)
・九州の大友貞宗等が鎮西探題を攻める
まとめ―鎌倉時代(1185年~1333年)の基本年表
(1185年 平家(平氏)滅亡:壇の浦の合戦)
1185年 源頼朝が守護・地頭の任命権を朝廷から得る(鎌倉幕府)
1189年 源義経が藤原泰衡に平泉で討たれる
1192年 源頼朝が征夷大将軍に
1203年 執権政治がはじまる:北条時政
1219年 源実朝殺される(源氏が滅ぶ)
1221年 承久の乱(幕府vs後鳥羽上皇)@京都→六波羅探題がおかれる
1232年 御成敗式目の制定(北条泰時)
1274年 元寇(げんこう)①:文永の役(「てつはう」を利用):北条時宗
1281年 元寇②:弘安の役:北条時宗
1297年 永仁の徳政令:北条貞時
1331年 楠正成が挙兵
同年 吉田兼好の『徒然草』ができる
1333年 鎌倉幕府が滅びる
まとめ―鎌倉時代(1185年~1333年)の中学受験用ポイント
政治:源氏→北条家(執権)→元寇で衰退→鎌倉幕府滅びる
1 源氏の征夷大将軍は3代で滅びる:源頼朝→源頼家→源実朝
2 (頼朝の妻・北条政子)北条家が力を持つ→北条氏が執権になり執権政治を始める
3 承久の乱(1221年):幕府(政子)vs京都の朝廷(後鳥羽上皇)→幕府が勝つ
4 1232年「御成敗式目」(北条泰時):(北条家の)執権政治最盛期
5 元寇(モンゴル襲来):1274年・文永の役、1281年・弘安の役→幕府衰える
6 1333年鎌倉幕府滅びる←反幕府勢力台頭:楠正成・後醍醐天皇・足利尊氏etc
7 鎌倉時代の文化:新仏教
鎌倉時代の文化:生活・新仏教
武士の生活:館
館(やかた)11:武士の家。周囲に土塁8や堀などをめぐらせた。
館の周辺に、直営地(門田9)が広がり、農民(下人11)などが耕作した。
館は主人を中心とした武士団の拠点で、「兵の道(つわもののみち)7」
(後の武士道)もここから生まれた。「弓馬(きゅうばのみち」7
騎射三物(きしゃみつもの)8:鎌倉時代に武士たちが行った3つの馬上弓技。
・笠懸11(かさがけ):笠を的にした
・犬追物11(いぬおうもの):馬場に放された犬を馬上から射る
・流鏑馬11(やぶさめ):3つの的を走る馬上から射る(今でもやってる)
上記動画は京都のものです。鎌倉の鶴岡八幡宮のものも有名ですね。
かなりのスピードですね。
【館を中心とした武士の生活から「いざ鎌倉!」的な滅私奉公文化が生まれた】
・惣領制11(そうりょうせい):惣領11(家督相続者・一族の長)中心の家制度。
・分割相続11:惣領制の相続形態。女性や庶子も相続した。武士団の中で当初、女性
の地位は高かったが、分割相続が武士の弱体化を招いたので、鎌倉末期には単独相続7
になっていき、「長男」の権限が強まり、女性の地位は下がっていった。
荘園と年貢
京都・奈良などの貴族などが「荘園領主」だったが、現場の年貢徴収などは武士団が
担う。武士が地頭11(荘園の管理人)を務め権力を強めた。「泣く子と地頭には勝てぬ」
・地頭請9(じとううけ):荘園領主が地頭に年貢の一定額を入れる事を条件に管理を任せた
・下地中分11(したじちゅうぶん):紛争にならないために、荘園領主と地頭が土地を分けあった。
・佃11(つくだ):荘園内で領主・地頭が、農民(下人)を使って耕作させた直営地。
・年貢11:農民→地頭→荘園領主(貴族)。米→宋銭。律令制の租。1年一回。
・公事10(くじ):年貢以外の貢納物。律令制の調・庸・雑徭
・夫役11(ぶやく):下人がする、佃の耕作や年貢の運搬など。律令制の雑徭。
・阿氐(あて)河(がわの)荘百姓等言上状10:紀伊(和歌山)の地頭の非道を訴えた訴状。
「ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリ」とカタカナで書かれてる。
・二毛作11:同じ耕地に、違う作物を年二回作る。表作、裏作7
・刈敷11(かりしき)草木灰11(そうもくばい):肥料。
・牛馬耕7:文字通り。西日本。生産力向上。
・荏胡麻(えごま)8:しそ科の一年草。灯明(とうみょう)に使った。
庶民の生活
・定期市11:月に数回。「三斎市(月3回)」10、「福岡市(現・岡山県瀬戸内市)」9
・宋銭11:中国の宋11(960~1279)の貨幣。
・借上(かしあげ)11:高利貸し。『トネガワ』の兵頭会長。
・為替(かわし)11:遠隔地間の貸し借りを為替手形で決済する制度
・問丸(といまる)10:年貢等の運送業者。問屋の元になった。
鎌倉時代の新仏教まとめ:庶民派
【飛鳥時代から鎌倉時代までの仏教まとめ】
飛鳥時代→仏教伝来538年→蘇我氏・聖徳太子が利用・広める。三宝(仏法僧)
奈良時代→仏教が国・政治に入りすぎた(聖武天皇・大仏、称徳天皇と道鏡etc)
平安時代→桓武天皇「道鏡ヤバイ!仏教は真面目な修行僧にやらせよう→最澄と空海」
鎌倉時代→庶民派仏教が大流行:念仏唱える(or坐禅・座る)だけで救われる!
★鎌倉仏教six6!は、庶民派!唱え(or座)ればOK!
【鎌倉仏教の語呂合わせ:情報知らん日蓮!1時にエリの同窓会】
①情(じょう)→じょうど→浄土宗
②法(ほう)→ほうねん→法然
③知らん→しんらん→親鸞
→じょうどしんしゅう→浄土真宗
④日蓮→日蓮、日蓮宗
⑤1(いち)→いっぺん→一遍
⑥時(じ)→じしゅう→時宗
⑦エ→えいさい→栄西
⑧リ→りんざい→臨済宗
⑨同(どう)→どうげん→道元
⑩窓(そう)→そうとう→曹洞宗
*念仏のように唱えましょう・・・
【念仏唱えればOK!系4つ】他力本願
●浄土宗(法然)11:「南無阿弥陀仏」→極楽浄土。他力本願。
・知恩院7:浄土宗総本山。京都にある。
●浄土真宗(親鸞)11:「南無阿弥陀仏」1回でOK!他力本願。一向宗11ともいう。親鸞は法然の弟子。
・『教行信証』9:浄土真宗の経典
・『歎異抄(たんにしょう)』11:弟子の唯円4が親鸞の言葉をまとめた本。
・悪人正機説11「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」(『歎異抄』)
・本願寺9:浄土真宗の中心。築地本願寺など。
●時宗(一遍)11:踊念仏10。踊りながら念仏唱えると極楽浄土に行ける!(え、まじ?)
奥羽から九州まで布教→「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」7と呼ばれた。
・『一遍上人語録』8:一遍の門弟たちがまとめた。
・清浄光寺(しょうじょうこうじ)7:時宗総本山。神奈川県藤沢市。
●日蓮宗(法華宗)・日蓮11:「南無妙法蓮華経」(題目)11と唱えればOK!他宗派を攻撃。
日蓮は、伊豆や佐渡に流される→許された後は甲斐(山梨)。『立正安国論』8。
・久遠寺(くおんじ)7:日蓮宗総本山。山梨県身延山。
【座れば(坐禅で)OK!系2つ】:自力救済
★禅宗(ぜんしゅう)8:坐禅で悟りを開く。自力救済系仏教宗派。
・禅7、坐禅11:禅の実践法が坐禅。
●臨済宗(りんざいしゅう)・栄西11:坐禅を組んで公案5を考え抜き悟りを開く
・『興禅護国論』8:旧仏教側の禅宗批判に対し、栄西(えいさい)が書いた本。
●曹洞宗(そうとうしゅう)・道元11:ひたすら坐禅!→只管打坐(しかんたざ)7
・『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)9:道元の説法を収録。曹洞宗の経典
・永平寺11:曹洞宗の本山・中心寺院。福井県。道元が作った。
【語呂合わせ:情報知らん日蓮!1時にエリの同窓会】
①情(じょう)→じょうど→浄土宗
②法(ほう)→ほうねん→法然
③知らん→しんらん→親鸞
→じょうどしんしゅう→浄土真宗
④日蓮→日蓮、日蓮宗
⑤1(いち)→いっぺん→一遍
⑥時(じ)→じしゅう→時宗
⑦エ→えいさい→栄西
⑧リ→りんざい→臨済宗
⑨同(どう)→どうげん→道元
⑩窓(そう)→そうとう→曹洞宗
【鎌倉仏教の語呂合わせ:情報知らん日蓮!1時にエリの同窓会】
法然
一遍
【鎌倉仏教の語呂合わせ:情報知らん日蓮!1時にエリの同窓会】
これら新仏教も旧仏教11から出発している。
そもそも、一遍以外の、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)、
栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)は比叡山の延暦寺で天台宗(最澄)を学んだ
所からスタートしている。
旧仏教の、多くの教えから「念仏だけ!」(法然、親鸞)、「坐禅だけ!」(栄西、道元)、
「題目だけ!」(日蓮)と、救いの方法を一つに集中させ、庶民に爆発的に広まった。
旧仏教側も、色々な運動を起こした。
・貞慶(じょうけい・解脱)10:法相宗の僧。旧仏教を改革
・明恵(みょうえ・高弁)10:華厳宗の僧。旧仏教を改革。
・叡尊(えいぞん・思円)10:戒律重視。
・忍性(にんしょう・良観)10:叡尊(えいぞん・思円)の弟子。戒律重視。
・渡会家行(わたらいいえゆき)8:伊勢神道(いせしんとう)10を唱えた
鎌倉時代の建築・文化
源平の戦いで、奈良の寺などは消失したので鎌倉時代に再建された。
・重源(ちょうげん)10:大仏様10(だいぶつよう)という宋の様式で東大寺の大仏を再建。
東大寺南大門10:大仏様の建築物。
・東大寺南大門金剛力士像11:運慶11と快慶11(奈良(南都)仏師)等が寄木造で制作。
1203年に69日で作られたといわれている。
東大寺南大門
向かって左・阿形(あぎょう)7は口をあけてる、右が吽形(うんぎょう)7でへの字口
1991年の解体修理の際、阿形像の金剛杵から墨書銘がみつかり、
吽形(うんぎょう)は定覚1と湛慶7、阿形は運慶と快慶が主に担当したことが判明
・禅宗様(ぜんしゅうよう)10:宋から輸入された建築様式。禅院に用いられた。
―円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)10:鎌倉にある。
・和様建築(わようけんちく)9:大仏様、禅宗様は中国からだが、和様は日本独自。
―蓮華王院本道(三十三間堂)8:和様建築の代表。京都。
・折衷様(せっちゅうよう)7:和様と大仏様などを混ぜた建築様式。歓心寺金堂6。
鎌倉時代の文学
鎌倉文化8:(平安の)公家・貴族文化+(鎌倉の)武士・庶民文化
・有職故実(ゆうそくこじつ)11:朝廷などの儀式・年中行事を研究する学問
→『禁秘抄』(きんぴしょう)7:順徳天皇による有職故実の書。
鎌倉時代の歌集
『新古今和歌集』11:後鳥羽上皇の命で藤原定家11等が編纂。西行11、慈円11等が歌人。
約1900首。「新古今調」5と言われ、技巧に富む。
藤原定家11(1162~1241):『新古今和歌集』の撰者の一人。『明月記』2という日記有。
西行11(1118~90):歌人。もと北面の武士。隠者となる。『山家集』9
・『金槐和歌集』11:源実朝(鎌倉幕府第三代将軍)の歌集。
鎌倉時代の随筆
(日本三大随筆:『枕草子』(清少納言)、『方丈記』(鴨長明)『徒然草』(吉田兼好))
・『方丈記』11:鴨長明11の随筆。京都の山に隠棲して方1丈(3m四方)
の草庵で書いた。1212年成立。人生の不遇、無常。日本を代表する随筆。
「ゆく河の流れは、絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶ、
うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく、とゞまりたるためしなし。
世中にある、人と栖(すみか)と、又かくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き卑しき人の
すまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋(たず) ぬれば、
昔しありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家と
なる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人
が中に、わづかに 一人二人なり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡に
ぞ似たりける。」『方丈記』の冒頭
・『徒然草』11:吉田兼好11の随筆。1331年頃。名随筆。無常・死
「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」(冒頭)
「世は定めなきこそいみじけれ。」(この世は無常だからこそいい)
「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。」(初心者はひとつの事に集中しなさい)
「速やかにすべきことをゆるくし、ゆるくすべきことを急ぐなり」
「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。」
「一日の命、万金(ばんきん)よりも重し。」
「友とするに悪(わろ)き者七つあり。一つには高くやんごとなき人。二つには
若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇め
る兵。六つには虚言する人。七つには欲深き人。」
「よき友三つあり。一つには物くるる友。二つには医師(くすし)。
三つには智恵(ちえ)ある友。」
鴨長明 吉田兼好
鎌倉時代の軍記物
軍記物11:戦記文学。平安時代の戦いをまとめたものが多い。
・『保元物語』9:保元の乱の源為朝の活躍を描く。作者不詳。
・『平治物語』9:平治の乱を描く。源義朝の子・悪源太義平を描く。作者不詳。
・『平家物語』11:平家の盛衰を華麗な文章で綴った。盲目の琵琶法師11が
平曲7で語り継いだ。
・『源平盛衰記』7:『平家物語』と内容はほぼ一緒。異本の一種か?
鎌倉時代の歴史書
・『吾妻鏡』(あづまかがみ)10:鎌倉時代を書いた重要歴史書。1180年の源氏挙兵から、
1266年までを日記体で記した鎌倉幕府の記録。源頼朝の死についての記述が無い。
・『愚管抄』(ぐかんしょう)11:慈円11の書いた歴史書。1220年成立。
神武天皇から承久の乱までを道理7と末法思想で書いた、日本では最初の歴史哲学的な本。
慈円11:『愚管抄』の作者、『新古今和歌集』の歌人でもある。天台宗の最高位。
・金沢文庫11:北条実時11が(現在の横浜市金沢区に)作った私設図書館。現在もある。
北条実時11:2代目執権・北条義時11(在位1205~24)の子。評定衆として時頼、時宗を補佐
鎌倉時代の絵巻物
『一遍上人絵伝』10:一遍(時宗)の生涯を描いた。自然や庶民生活も。
『一遍上人絵伝』
『春日権現験記』(かすがごんげんげんき)10:竹林殿造営の場面が有名
『春日権現験記』
『蒙古襲来絵巻』9:竹崎季長(たけざきすえなが)11が描かせた。
・竹崎季長11:肥後の御家人。文永の役で活躍し、地頭職を得る。
『蒙古襲来絵巻』
鎌倉時代の似絵(にせえ)
似絵(にせえ)11:鎌倉時代に発達した写実的な人物画(以前は理想化された絵)。
・藤原隆信11:藤原定家の異父兄。『源頼朝像(伝)』『平清盛像(伝)』など。
息子の藤原信実8も似絵で有名。
・『源頼朝像(伝)』9:藤原隆信の作。頼朝かどうかは未確定。京都神護寺。
・『平清盛像(伝)』9:藤原隆信の作。京都神護寺。清盛かどうかは未確定。京都神護寺。
源頼朝像 平清盛像
頂相(ちんぞう)10:禅宗で修行僧が一人前になるともらえる、先輩の肖像画
鎌倉時代の刀鍛冶
・粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)7:京都の刀鍛冶。
・岡崎正宗8:鎌倉(相模国)にいた刀鍛冶。五郎入道正宗と言われる
・長船長光(おさふねながみつ)8:備前国(現・岡山県)の刀鍛冶。備前物。