平安時代のまとめ(後半・11世紀~12世紀)・日本史9/youtube音声動画付き―「中学受験+塾なし」の勉強法!

平安時代のまとめ(後半・11世紀~12世紀)のyoutube音声動画

この記事のyoutube音声動画です。

音声を聞きながら記事を読んでいくとより分かり

やすいかと思います。

 

●平安時代後半は1000年くらいから1185年平家滅亡(壇の浦の戦い)位まで

●権力者:藤原道長→白河上皇(院政)→平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)

藤原道長「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

白河上皇「思い通りにならないのは賀茂川の水・サイコロの目・山法師(比叡山の僧兵)」(平家物語)

平氏(平清盛)「平氏にあらずんば人にあらず」と言ったのは「平時忠」(平家物語)

●国風文化(9世紀後半~11世紀):紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』

 

平安時代の後半(1000年頃~1185年)の基本年表

(菅原道真(845~903)の死後・藤原氏再度台頭→摂関政治最盛期)

(894年遣唐使廃止:菅原道真・宇多天皇)

(939年 承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)):平将門の乱、藤原純友の乱

1016年 藤原道長が摂政に:摂関政治最盛期

 「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

(同じ頃に紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』)

1051~62年 前九年の役(合戦)→源氏の東国への足がかりに

1083~87年 後三年の役(合戦)→奥州藤原氏

1086年 白河上皇が院政を始める:藤原氏が衰える

1124年 奥州藤原氏が中尊寺金色堂を建てる

1156年 保元の乱:源平対立

1159年 平治の乱→平氏の全盛期

1167年 平清盛が太政大臣になる

1180年 源頼朝が挙兵

1185年 平家(平氏)滅亡:壇の浦の合戦

同年  鎌倉幕府(源頼朝が守護と地頭の任命権を得る)

 

平安時代の後半(1000年頃~1185年)の中学受験用ポイント

1)藤原道長が摂政になる(摂関政治最盛期):1016年

「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

(藤原氏の力が衰えてくる)

2)前九年の役(1051~62年)・後三年の役(1083~87年):東国+奥州藤原氏

3)白河上皇が院政を始める:1086年

「思い通りにならないのは賀茂川の水・サイコロの目・山法師(比叡山の僧兵)」(平家物語)

(武士:平氏と源氏の時代になってくる)

(院政期は平安末期まで続く)

4)保元の乱(1156年)→武士が政争に使われ、院政が混乱+源氏と平氏が台頭

  平治の乱(1159年)→平清盛が源義朝(頼朝の父)を滅ぼし、頼朝を伊豆に流罪にした

5)平清盛が太政大臣になる(1167年)平氏の全盛期

「平氏にあらずんば人にあらず」と言ったのは「平時忠」(平家物語)

6)源頼朝の挙兵(1180年)~平家(平氏)滅亡(1185年の壇の浦の合戦)

7)国風文化(9世紀後半~11世紀):紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』

まずは上記の「基本年表」と「中学受験用のポイント」だけを

読んで、ある程度頭に入ってから下記の詳細を読んでいってください。

 

1)藤原道長が摂政になる(摂関政治最盛期):1016年

「藤原道長」の画像検索結果

「藤原道長 家系図」の画像検索結果

藤原道長11(966~1027):『摂関政治」と藤原氏の最盛期

995年 内覧 1016年 摂政 1017年 太政大臣

娘を天皇の后にして(外戚11)、その息子を天皇にして(外祖父11)

というのを連続してやり、大権力者になる。摂政と関白を藤原家(北家)が独占。

「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

摂関政治」は10~11世紀の藤原道長11と藤原頼通11(よりみち・道長の子供)時代が最盛期

『御堂関白記』5(みどうかんぱくき):藤原道長の日記。国宝。現存する世界最古の直筆日記

  

藤原北家(ほっけ)三代:藤原兼家7→道長11→頼通11(よりみち)

「藤原兼家 道長 頼通」の画像検索結果

藤原頼通11(よりみち・道長の子供)992~1074

「藤原頼通 天皇」の画像検索結果「平等院」の画像検索結果

・道長の子供で約50年間も摂政・関白をつとめた

・3代の天皇の摂政/関白になる:後一条天皇10、後朱雀天皇7、後冷泉天皇7

(上の3天皇は、全員、道長の娘が産んだ男子:外戚・外祖父!

・宇治に「平等院鳳凰堂」を建てる(宇治関白と呼ばれる)

・ただ、藤原頼通の娘と天皇の間には男子が産まれなかったので外戚が途切れる

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【11世紀後半に、権力は藤原家(摂関家)→天皇・上皇になっていく】

藤原家を外戚としない後三条天皇11(在位1068~72)が誕生し、親政(天皇が

政治を自ら行う事)をする。「荘園禁止令」9を出し、荘園を経済基盤にしていた

摂関家(藤原家)から力を奪おうとする。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

2 前九年の役(1051~62年)・後三年の役(1083~87年):東国++源氏+奥州藤原氏

【前九年の役(1051~62年)と後三年の役(1083~87年)は東国での源氏の

勢力伸張と奥州藤原氏成立の契機になった】

承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)(平将門の乱(939~940)と藤原純友の乱

(939~941)の後も、地方は混乱し、東国(関東)と陸奥・出羽(東北・奥州)で

起こったのが、前九年の役(1051~62年)と後三年の役(1083~87年)

●1028年平忠常の乱11:関東で桓武平氏(桓武天皇の子孫)が起こした反乱

   清和源氏の源頼信11が討ったので、源氏が関東に勢力を伸ばす。関東の

   平氏は衰退。

「源頼信 系図」の画像検索結果

1051~62年 前九年の役(合戦)→源氏の東国への足がかりに

   陸奥・出羽の安倍氏が反乱。源頼義、源義家の親子が平定。

1083~87年 後三年の役(合戦)→奥州藤原氏

   陸奥・出羽の清原氏11を源義家が平定。協力した、奥州藤原氏11

   は平泉(岩手県)を中心に栄えた(藤原三代5)

関連画像

奥州藤原氏(藤原三代):【語呂合わせ:奥州藤原氏はミイラ作ってきもひ(きもい)

 【清衡(きよひら)→ 基衡(もとひら)→秀衡(ひでひら)→泰衡(やすひら)】        

藤原清衡11(きよひら)1056~1128:後三年の役。中尊寺金色堂(岩手県平泉・ミイラ)を

     建てる。安倍・清原家の支配地を継承。

 ↓

藤原基衡11(もとひら)?~1157:毛越寺(もうつうじ)を建てる

 ↓

藤原秀衡(ひでひら)1122~87:奥州藤原氏最盛期。源頼朝に対抗。源義経を保護。

         無量光院(宇治平等院のパクリ)を建てる。

 ↓

藤原泰衡8(やすひら)1155~89:頼朝に言われて源義経を殺害。その後、頼朝に滅ぼされる。

               奥州藤原氏は滅亡11→出羽・陸奥は鎌倉幕府(源頼朝)のものに。

「奥州藤原氏」の画像検索結果「無量光院」の画像検索結果

毛越寺の三衡画像(左)、無量光院の跡地(世界遺産)

 

四代目の藤原泰衡が源頼朝に攻められて奥州藤原氏は滅亡した。

 

3 白河上皇が院政を始める:1086年

後三条天皇11(在位1068~72)の息子・白河天皇(在位1072~86)11

が天皇家の力をさらに増す。

白河天皇(上皇)(天皇在位1072~86、上皇1086~1129)

「白河上皇」の画像検索結果

白河天皇は、天皇の位を譲っても、「上皇」(太上天皇の略・天皇を

譲った人の称号)11として、院政11を始める(1086年)。上皇が

出家すると法皇11になる。

堀河天皇9・鳥羽天皇8・崇徳天皇11の3代43年間に渡って院政を敷いた。

「思い通りにならないのは賀茂川の水・サイコロの目・山法師(比叡山の僧兵)」(平家物語)

11→上皇の住居。北面の武士11(平氏、源氏の武士)が守った。

院庁11→院の政治機関、院庁の職員が院司(いんし)9・院の近臣11(上皇の側近)

院宣(いんぜん)9:院庁から出される、上皇の命令。院庁下文

院政期9は平安時代末期まで100年・一世紀くらい続く。

・白河天皇(上皇)(天皇在位1072~86、院政1086~1129)

鳥羽天皇(上皇・法皇)11(天皇在位、1107~23、院政1129~56)

後白河天皇(法皇)11(天皇在位、1155~58、院政1158~79、81~92)

【語呂合わせ:院政期の天皇は白鳥後を濁さず(白河→鳥羽→後白河】

3人の上皇ともに、仏教を厚く信仰→出家して法皇+知行国の制度10

ただ、仏教に手厚くしたので、逆に大寺院の僧兵11が力を持った。

興福寺(南都11)や延暦寺(北嶺11)の僧兵はしばしば朝廷に強訴11した。

 

4 保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)

鳥羽法皇の死にともなうゴタゴタから、藤原氏、源氏、平氏入り乱れ

ての「場外乱闘」になったのが、保元の乱11(1156年)。

後白河天皇側が勝利。崇徳天皇は讃岐に流罪。

平氏や源氏といった武士の力を借りないと、争いごとが解決できない

のが明白になる→院政の混乱+武士の台頭が明確に。

平治の乱(1159年)は「源平合戦」:平清盛(平氏)全盛の時代に

保元の乱に勝った後白河上皇が院政を始めると、院近臣(いんのきんしん)11、

藤原通憲(みちのり・信西(しんぜい))11と藤原信頼(のぶより)11が対立し、

1159年に平治の乱11が始まる。平清盛(平氏)が源義朝(源氏)を破り、平氏の

全盛時代に入っていく。なお、平治の乱の時に源頼朝(義朝の息子)は12歳で初陣。

敗れて、処刑間近!の所を、清盛の義母(池禅尼)の嘆願でなんとか伊豆に流罪で

すむ。この時、処刑されていたら鎌倉幕府はなかったはず。

源義朝11(よしとも)1123~60:源頼朝の父。平治の乱で平清盛に破れ、尾張で暗殺

【保元の乱・平治の乱の語呂合わせ:戦後、平氏の時代になったので、平治の乱が後

 

5 平清盛が太政大臣になる(1167年)平氏の全盛期

「平清盛」の画像検索結果

平清盛(1118~81)11:受験上は「平家納経」「日宋貿易」「大輪田泊」(現・神戸港)辺りがポイント

平忠盛9の子(白河上皇の隠し子説もあり)。安芸守だった。

平治の乱(1159年)後、1167年に太政大臣になる(後白河上皇)。

外戚・外祖父となり権力を掌握。平氏の全盛時代を築く

「平氏にあらずんば人にあらず」(平家物語)と言ったのは平時忠(清盛の義弟)

厳島神社11(広島・安芸の国・平氏の氏神)に『平家納経(のうきょう)』11

「平家納経」の画像検索結果「平家納経 厳島神社」の画像検索結果

『平家納経』

「厳島神社」の画像検索結果

広島県にある厳島神社(安芸の宮島)

平清盛が樹立した平氏政権11(六波羅政権3:京都の六波羅にあった)は日本最初の武家政権。

また、中国の11(960~1279)と大輪田泊おおわだのとまり・現在の神戸港)11で日宋貿易10

を行い富を蓄えた。

「日宋貿易」:輸入品(宋銭、陶磁器、香料etc)・輸出品(砂金、刀剣、木材etc.)

娘・平徳子(建礼門院)9を高倉天皇の中宮(后)にして、生まれたのが安徳天皇11

(壇の浦の合戦で入水。当時8歳)。外戚、外祖父として権力を握るが、反発を広げ

(何しろ「平氏じゃなければ人じゃない」なので)、源氏が挙兵する中、病気で

死亡。既に、源頼朝が打倒平氏で伊豆で挙兵し鎌倉を中心に勢力を拡大していた

ので、遺言は、

「葬式はしないでいいから、頼朝の首を墓前にそえろ」

だったとか。

 

6)源頼朝の挙兵(1180年)~平家(平氏)滅亡(1185年の壇の浦の合戦)

【1180年に源平の戦い5が始まる~1185年平家滅亡・壇の浦の戦い】

源頼朝が伊豆で挙兵し、鎌倉を拠点に基盤を固め、弟で奥州藤原氏の

元から参戦した、源義経らに平氏を西に追いつめさせ、壇の浦で滅亡させた。

出典:『まるわかり小6社会』41p

・原因:平氏・平清盛の専制がひどいのであちこちで恨みを買っていた

    安徳天皇(平清盛の孫)11を2歳で即位させる

・状況:以仁王もちひとおう・後白河天皇の皇子)11と源頼政11が先陣

    源頼朝11は伊豆で挙兵し、鎌倉11に拠点。源義仲〔木曽義仲)11は信濃で挙兵。

 

平氏(平清盛)は都を平安京から福原(現・神戸市)に遷都8するが、すぐに

京都〔平安京)に戻す。源平合戦のさなか、1181年に平清盛は病死。

遺言は、「葬式はしないでいいから、頼朝の首を墓前にそえろ」。

清盛の死以降、平氏は一気に衰え、西に逃げる(「平家の落ち武者」状態)。

源頼朝は、二人の弟に平氏を西に追いつめさせた。

●〔奥州藤原氏から参戦した)源義経11と源範頼(のりより)11●

〔二人とも、後に頼朝に殺される・・・)

一の谷の戦い6:1184年福原(現・神戸)の西。源義経11と源範頼が平氏を負かす

    ↓

屋島の戦い7:1185年2月讃岐国屋島に逃げた平氏が再度、義経に負ける。

       那須与一(なすのよいち・義経の部下)の扇の的を射抜いた話が有名

    ↓

壇の浦の戦い11:1185年3月、長門国の壇の浦(現・下関市)で安徳天皇(8歳)は入水。

        「波の下にも都はございます」(二位尼)。平家は滅亡。

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『平家物語』:名文やね~~~~

 

源頼朝(1147~99)11

源氏の棟梁。鎌倉幕府(1185年)。征夷大将軍〔1192年~99年)。鎌倉殿。

源義朝(よしとも)の子供。平治の乱(1159年)後、伊豆に流罪。

1180年以仁王(もちひとおう)に応じて伊豆で挙兵。鎌倉を拠点にする。

弟の源義経11と源範頼11を使って、源義仲〔木曽義仲)を滅ぼし(1184年)、

さらに1185年平氏も滅ぼす(これも弟二人・・・)。

1185年、守護・地頭の任命権を後白河上皇に認めさせる(鎌倉幕府)

1192年征夷大将軍になる。

 

鎌倉11を頼朝が選んだ理由

①源氏と縁がある

②山と海に囲まれているので守りやすい

③都(京都)から離れていて影響を受けづらい

 

悲劇のヒーロー源義経

「源義経」の画像検索結果

源義経1159~89(源頼朝の弟・幼名「牛若丸」)

平治の乱(1159年)で、平清盛に負けた源義朝は死亡。息子の頼朝と

義経は処刑間際に救われる。頼朝は伊豆に流罪。生まれたばかりだった、

義経は奈良・京都で育ち、後に奥州藤原氏の下に行く。

1180年頼朝の挙兵にともない奥州から出てきて大活躍。

が、そこから悲劇が・・・。

鎌倉幕府が成立している頃、平氏征伐の大功労者である、源義経は

頼朝に煙たがられて、奥州藤原氏の下へ逃げていたが、三代目

藤原秀衡(ひでひら)が死亡すると、頼朝が「義経を出せや」と

迫り、四代目の藤原泰衡(やすひら)は「ハイハイ」と言って、

義経を衣川(ころもがわ)の館で自殺させてしまう。

弁慶は義経が籠る堂の入口で薙刀をふるい、防戦しますが多勢に無勢、

無数の矢を体中に受けて立ったまま絶命!(弁慶の立ち往生)。

「弁慶 立ち往生」の画像検索結果

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奥州藤原氏(藤原三代):【語呂合わせ:奥州藤原氏はミイラ作ってきもひ(きもい)や

 【清衡(きよひら)→ 基衡(もとひら)→秀衡(ひでひら)→泰衡(やすひら)】

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(1185年守護・地頭の任命権→鎌倉幕府成立)

【1189年 源義経が藤原泰衡に平泉で討たれる(自殺)】

(1192年頼朝が征夷大将軍に)

頼朝は「義経を匿った罰」として、すぐに藤原泰衡を攻めて、

「奥州藤原氏を滅亡(1189年)」11させる。頼朝ひで~~。

この逸話から、

「義経=チンギス・ハーン説」(死なずに北海道経由で大陸に渡り、モンゴルに行った)

「判官贔屓(はんがんびいき・ほうがんびいき):弱い者を味方してしまう心情」

が生まれた。

中学歴史13 ポイント3 答え全部

 

国風文化(9世紀後半~11世紀):紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』

 国風⇔唐風(ex.894年遣唐使廃止・菅原道真)

国風文化11〔藤原文化5):10~11世紀の摂関時代の文化/中国の影響薄まる

かなもじ(仮名)11・平がな(仮名)・片かな10→日記、物語。女性が使用

「仮名文字 平安時代」の画像検索結果

和歌集

『古今和歌集』11:紀貫之11(きのつらゆき・土佐日記)。905年醍醐天皇の命。

  「古今調」(優美、繊細、技巧)といわれ、万葉調と比較される。

  最初の勅撰和歌集(ちょくせん)10:天皇、上皇の命令で作られた和歌集。

  勅撰和歌集は、「古今和歌集」~「新続古今和歌集」まで21集〔二十一代集)ある。

和漢朗詠集』9:1013年頃。藤原公任(きんとう)9が選んだ。

日記

『土佐日記』11〔紀貫之・古今和歌集の撰者):935年頃。最初のかな日記。土佐守の任を

  終え、帰京する際の紀行文。女性の体で書かれている〔紀貫之は男)。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」〔土佐日記の書き出し)

『蜻蛉日記』7(かげろう):974~995頃。藤原道綱の母7が作者。女性の日記。

『紫式部日記』7:紫式部の日記。宮廷の話が中心。清少納言を批判。

『和泉式部日記』7(いずみしきぶ):11世紀前半。恋愛的な日記。

更級日記』6(さらしな):1058年頃。菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ と読む

物語

竹取物語』11:9世紀末~10世紀初め。かぐや姫の婿取り→当時の貴族社会。

伊勢物語』11:10世紀前半。在原業平7(ありわらのなりひら)が主人公の歌物語。

源氏物語11:11世紀初頭。大長編小説。全54帖(じょう)。光源氏が主人公。

    藤原氏全盛時代の貴族社会を描写。紫式部は物語はこれしか書いてない。

紫式部11:下級貴族、越前守〔藤原為時)の娘。夫と死別後『源氏物語』を書き出す。

   藤原道長の娘・彰子6(一条天皇の中宮)に仕える。紫式部は藤原道長の愛人説あり。

枕草子』11:清少納言11の随筆集。11世紀初頭。

「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」

清少納言11:一条天皇の皇后・定子(ていし)5に仕える。

「紫式部 清少納言」の画像検索結果

紫式部と清少納言はほぼライバル。

 

平安時代後半の仏教:浄土教

仏教は外来〔538年百済から)の宗教なので、平安時代には日本古来の

神道との融合が図られた(神道の神々を特定の仏と結びつける)。

   ↓

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)10

陰陽道(おんみょうどう)9:中国から陰陽五行説5が伝来、迷信広まる

 →物忌(ものいみ)10:物怪につかれたら謹慎

  方違(かたたがえ)10:方角が悪いと、一日別の場所に泊まってから行く等

末法思想11(世も末じゃ・・・):1052年が末法初年とされた。浄土信仰を生み出す一因

浄土教11:10世紀以降。阿弥陀浄土(あみだじょうど)。阿弥陀仏〔阿弥陀如来)10。

     極楽浄土9。念仏11「南無阿弥陀仏」10を唱えると往生10できるとされた。

空也(くうや)11:903~972。民間に念仏を広めた。市聖(いちひじり)7〔8=僧の位)

「空也 六波羅蜜寺」の画像検索結果

空也上人像6:鎌倉時代の康勝(こうしょう)10の作(京都六波羅密寺蔵)

源信(げんしん・恵心僧都(えしんそうず))11:『往生要集』11を書く。

 

建築

寝殿造り(しんでんづくり)11:平安時代の貴族の住宅の建築様式

  中心に「寝殿」8、東西、北に対屋(たいのや)8、それらを廊6

  でつなぐ。檜皮葺(ひわだぶき)10

関連画像

京都御所            厳島神社

 

阿弥陀堂10:阿弥陀仏を安置するお堂。各地に作られた。平等院鳳凰堂は阿弥陀堂。

平等院鳳凰堂11:藤原頼通(道長の子供)が京都の宇治に建てる。

 平等院鳳凰堂阿弥陀如来像11:国宝。寄木造(よせぎづくり)11。定朝(じょうちょう)の作品。

「平等院」の画像検索結果「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」の画像検索結果

平等院鳳凰堂                                                 平等院鳳凰堂阿弥陀如来像

絵画/美術

「平等院鳳凰堂扉絵」の画像検索結果

平等院鳳凰堂扉絵8

高野山聖衆来迎図 国風文化 浄土の信仰

高野山聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)10

蒔絵(まきえ)8:漆工芸の一種

「蒔絵 平安時代」の画像検索結果

書道

三跡(さんせき)11:藤原佐理10、藤原行成10、小野道風10

服装

十二単(じゅうにひとえ)・女房装束11:女官の正装。12枚とは限らない。

束帯(そくたい)11:男子の礼服。正装

「束帯」の画像検索結果

直衣(のうし)7:公家の平常服

狩衣(かりぎぬ)6:男性の平常服

水干(すいかん)7:庶民男性の平常服

小袖(こそで)11:貴族は下着。庶民は普通の服

「平安時代 小袖」の画像検索結果

 

院政期・平安末期の文化

歴史物語10:平安末期、貴族の華やかな過去を追憶して書かれた

『栄華物語』10:藤原道長の栄華を賛美。宇多天皇〔菅原道真を重用)から堀河天皇。編年体

『大鏡』11〔世継物語):藤原道長〔藤原氏)全盛期を批判的に書いた。紀伝体。四鏡の一つ

『今昔物語集』11:平安末期の説話集。日本・インド〔天竺)・中国。民衆の姿。1040話。

軍記物11

『将門記』(しょうもんき)11:平将門の乱を書いた

『陸奥話記』(むつわき)11:前九年の役について書いた

建物

中尊寺金色堂11:藤原清衡〔藤原三代の初代)が平泉〔岩手県)に建てた阿弥陀堂。ミイラ。

奥州藤原氏(藤原三代):【語呂合わせ:奥州藤原氏はミイラ作ってきもひ(きもい)や

 【清衡(きよひら)→ 基衡(もとひら)→秀衡(ひでひら)→泰衡(やすひら)】

「中尊寺金色堂」の画像検索結果関連画像

「中尊寺金色堂 ミイラ」の画像検索結果

毛越寺(もうつうじ)7:藤原基衡〔二代目)

富貴寺大堂(ふきじおおどう)11:大分県豊後高田市。阿弥陀堂建築。

          浄土教が地方にまで普及していた事が分かる。

絵巻物11:詞書(ことばがき)10と絵を交互に書いていく

 『源氏物語絵巻』11:絵は藤原隆能3。

「源氏物語絵巻」の画像検索結果

 『鳥獣戯画』11:平安末~鎌倉初期。鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)8が筆者かも

「鳥獣戯画」の画像検索結果

平家納経(のうきょう)』11:厳島神社11+平清盛

「平家納経」の画像検索結果「平家納経 厳島神社」の画像検索結果

『平家納経』

「厳島神社」の画像検索結果

厳島神社(安芸の宮島)

猿楽(さるがく)10:芸能。能の起源。

「猿楽 平安時代」の画像検索結果

田楽(でんがく)11:祭礼神事の芸能。

「田楽 平安」の画像検索結果

今様(いまよう)11:平安末期の歌謡(当時の『現代歌謡」の意味)。『梁塵秘抄』

『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)11:平安末期の歌謡集。

 

まとめ―平安時代後半

●平安時代後半は1000年くらいから1185年平家滅亡(壇の浦の戦い)位まで

●権力者:藤原道長→白河上皇(院政)→平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)

藤原道長「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

白河上皇「思い通りにならないのは賀茂川の水・サイコロの目・山法師(比叡山の僧兵)」(平家物語)

平氏(平清盛)「平氏にあらずんば人にあらず」と言ったのは「平時忠」(平家物語)

●国風文化(9世紀後半~11世紀):紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』

 

平安時代の後半(1000年頃~1185年)の基本年表

(菅原道真(845~903)の死後・藤原氏再度台頭→摂関政治最盛期)

(894年遣唐使廃止:菅原道真・宇多天皇)

(939年 承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)):平将門の乱、藤原純友の乱

1016年 藤原道長が摂政に:摂関政治最盛期

 「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

(同じ頃に紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』)

1051~62年 前九年の役(合戦)→源氏の東国への足がかりに

1083~87年 後三年の役(合戦)→奥州藤原氏

1086年 白河上皇が院政を始める:藤原氏が衰える

1124年 奥州藤原氏が中尊寺金色堂を建てる

1156年 保元の乱:源平対立

1159年 平治の乱→平氏の全盛期

1167年 平清盛が太政大臣になる

1180年 源頼朝が挙兵

1185年 平家(平氏)滅亡:壇の浦の合戦

同年  鎌倉幕府(源頼朝が守護と地頭の任命権を得る)

 

平安時代の後半(1000年頃~1185年)の中学受験用ポイント

1)藤原道長が摂政になる(摂関政治最盛期):1016年

「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

(藤原氏の力が衰えてくる)

2)前九年の役(1051~62年)・後三年の役(1083~87年):東国+奥州藤原氏

3)白河上皇が院政を始める:1086年

「思い通りにならないのは賀茂川の水・サイコロの目・山法師(比叡山の僧兵)」(平家物語)

(武士:平氏と源氏の時代になってくる)

(院政期は平安末期まで続く)

4)保元の乱(1156年)→武士が政争に使われ、院政が混乱+源氏と平氏が台頭

  平治の乱(1159年)→平清盛が源義朝(頼朝の父)を滅ぼし、頼朝を伊豆に流罪にした

5)平清盛が太政大臣になる(1167年)平氏の全盛期

「平氏にあらずんば人にあらず」と言ったのは「平時忠」(平家物語)

6)源頼朝の挙兵(1180年)~平家(平氏)滅亡(1185年の壇の浦の合戦)

7)国風文化(9世紀後半~11世紀):紫式部『源氏物語』・清少納言『枕草子』

 

平安時代のまとめ(後半・11世紀~12世紀)のyoutube音声動画

この記事のyoutube音声動画です。

音声を聞きながら記事を読んでいくとより分かり

やすいかと思います。