室町時代は乱世(南北朝時代)に始まり、乱世(戦国時代)に終わった。
【室町時代概略】(1336年~1573年)
初期は南北朝時代(1336年~1392年):足利尊氏vs後醍醐天皇。
足利義満(在位1368~1394)が南北朝を合体(1392年)させてから、
応仁の乱(1467年~77年)までが実質的な「室町幕府」の時代。
足利義満の時代がもっとも安定していた。
【15世紀(1401年~1499年)は一揆の時代】
その後、農民や地侍が惣村を形成し、土一揆などを起こし(1428年正長の土一揆)、
徐々に室町幕府は弱体化していき、応仁の乱(1467年~77年)で室町幕府の権威は
ほとんど消滅(幕府・将軍自体は残る)。応仁の乱以降はいわゆる「戦国時代」
(このブログでは「戦国時代」は別に分けています)
守護大名や、農民たちの土一揆や、長年力を持っていた仏教・僧兵や、出てき
つつあった商人(堺など)や、かろうじて生きながらえていた室町幕府(足利将軍)
などをすべて武力で叩き潰し、飲み込む魔王のような男、
そうあの織田信長が出てくるのは、次のお話・・・。
室町時代(1336年~1573年)の基本年表(応仁の乱まで)
(1333年 鎌倉幕府滅亡)
1333or1334年 建武の新政
1336年 南北朝の分裂始まる(~92年)「南」吉野・後醍醐天皇、「北」京都・足利尊氏
1338年 足利尊氏が征夷大将軍になる
1392年 南北朝の合体(足利義満):【語呂合わせ:いざくに作ろう南北朝統一】
1397年 金閣寺(足利義満が北山に建てる)
1404年 勘合貿易(足利義満が明との間で始める)
1428年 正長の土一揆
1467年~77年 応仁の乱(京都が大荒れ)
(下克上の戦国時代へ)
室町時代(1336年~1573年)の中学受験用ポイント
政治:建武の新政(後醍醐天皇)→南北朝(尊氏vs後醍醐)→足利義満→応仁の乱
1 建武の新政(1334~36):後醍醐天皇。大内裏造営計画、国司・守護の併置。
2 南北朝時代(1336~92):足利尊氏(北朝)vs後醍醐天皇(南朝)/守護大名
3 南北朝の合体(1392年):足利義満の時代(勘合貿易)・倭寇
4 15世紀(1401~1499)は「一揆」(農民の反乱)の時代:惣村
5 応仁の乱と室町幕府の弱体化
まずは上記の「基本年表」と「中学受験用のポイント」だけを
読んで、ある程度頭に入ってから下記の詳細を読んでいってください。

1 建武の新政(1334~36):後醍醐天皇。大内裏造営計画、国司・守護の併置。
足利尊氏、新田義貞、楠正成 等の武士の協力で鎌倉幕府を滅ぼした。
(尊氏→京都の六波羅探題を攻める、新田義貞→鎌倉の北条家を攻める)
後醍醐天皇は、「建武の新政」という改革を始めるが、天皇・公家中心の
政策だったので、武士の反発を招き、足利尊氏に裏切られて、2年ほどで終わる。

・天皇と公家中心の政治→武士が反発→足利尊氏が裏切る
・大内裏造営計画(だいだいり):紙幣発行+地頭に税金→武士の反発
・国司・守護の併置:国司を新設したが、守護はそのままだったので併置になった
・記録書:公家政治復活の中心機関。
・雑訴決断所:所領問題の訴訟を扱った
・綸旨(りんじ):天皇の意思を側近を通して伝える文書
・恩賞方(おんしょうがた):公平ではなかったので武士の不満を招く
・武者所(むしゃどころ):京都の治安維持機関。長官は新田義貞。
・鎌倉将軍府:建武政府が関東を統治するために鎌倉に開いた機関
・陸奥将軍府:多賀城跡が本拠。奥羽2州の統治
・二条河原の落書:京都二条河原に張り出された落書。建武新政を批判。
「此頃(このごろ)都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)」『建武年間記』
2 南北朝時代(1336~92):足利尊氏(北朝)vs後醍醐天皇(南朝)/守護大名
建武の新政に不満をもった武士の棟梁である足利尊氏が後醍醐天皇を裏切る。
後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ【南朝】を開く、足利尊氏は京都で
光明天皇を擁立し、【北朝】を開く。
以後、足利義満が南北朝を合体させるまで、京都(北朝)と奈良(吉野・南朝)
に二つの朝廷・二人の天皇が並立した時代を『南北朝時代』(1336年~1392年)
と言う。

●北朝:京都、足利尊氏・光明天皇・持明院統。天皇5代
●南朝:吉野(奈良)、後醍醐天皇、大覚寺統。北畠親房。天皇4代
【南北朝時代到来のきっかけは、足利尊氏の裏切り・挙兵】
1335年、北条高時の子供・北条時行が鎌倉幕府の再興を図って
鎌倉で起こした「中先代の乱」を鎮圧した足利尊氏は、後醍醐天皇
に反旗を翻す!
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足利尊氏(足利高氏):室町幕府初代将軍(在位1338~58)
騎馬武者像(足利尊氏ではない説が有力) 足利尊氏像
もともとは源氏の一族で御家人。
【鎌倉幕府側→裏切り後醍醐天皇を助ける→建武新政時に裏切り室町幕府開く】
(幕府側の時は、北条高時の「高」をもらい、「足利高氏」と名乗った)
(その後、後醍醐天皇の名前から一字をもらい、「足利尊氏」と名のる)
建武の新政に反発して、光明天皇を擁立し「北朝」を建てる。
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・光明天皇(在位1336~48):持明院統。1338年尊氏を征夷大将軍に任命。
・建武式目:1336年尊氏が示した室町幕府の方針。
・建武以来追加:(鎌倉時代の)御成敗式目を使っていたが、それに新令を加えた
・北畠親房(ちかふさ):南朝(後醍醐天皇)の重臣。子・北畠顕家。『神皇正統記』。
南北朝の内乱(1336年~92年)10が長引いたのは、南朝に北畠親房ら
有能な重臣がいたことと、室町幕府内部にも対立があったことが原因。
・観応の擾乱(かんのうのじょうらん):1350~52。足利尊氏+高師直vs足利直義
―足利直義(ただよし):尊氏の弟。建武新政の打倒に貢献。その後、尊氏と対立、毒殺される
―高師直(こうのもろなお):尊氏の執事(のちの管領)。直義に殺された。
南北朝の内乱が続くと、国ごとに置かれた「守護」の力が強まった。

●守護大名
鎌倉時代の守護は警察権力だけだったが、室町時代は権限が強まり、
地頭や武士(国人・こくじん)を家臣化していった。後の大名になっていく。
守護の力が強まると、国人(こくじん)たちが団結して一揆(国人一揆)を
起こしたりしたが、次第に守護大名に支配されていった。
・刈田狼藉(かりたろうぜき):守護に与えられた権限。係争中の田を一方的に刈り取れる
・使節遵行(しせつじゅんぎょう):土地関係の幕府の判決を守護が実行できる権限
・半済令(はんぜいれい):1352年足利尊氏が始めた。荘園等の年貢の半分を守護に与える
・守護領国制8:守護大名による地域支配体制のこと
・守護請(しゅごうけ):守護が荘園等の経営を任される事→荘園制の崩壊+守護大名の誕生へ
3 南北朝の合体(1392年):足利義満の時代
【南北朝の合体の語呂合わせ:いざくに(1392年)統一南北朝】
足利義満(室町幕府第3代将軍・1358~1408、在位1368~94)尊氏の孫。
・花の御所(室町殿):1378年。義満が京都の室町に建てた。「室町幕府」の名前の由来。
・南北朝の合体(1392年):南北両朝が交代で天皇になるという条件で和睦(実現せず)
―(南朝)後亀山天皇:南朝最後の天皇。(北朝)後小松天皇:合体時の北朝の天皇
・1394年に出家して太政大臣に(武家としては平清盛以来)。権力は握り続ける。
・金閣(寺):1397年京都の北山。死後、鹿苑寺(ろくおんじ)。1950年焼失、55年再建。
・勘合貿易(日明貿易):1404年義満。勘合。底簿。日字勘合。本字勘合。朝貢貿易。
・文化:能の観阿弥(と世阿弥)を保護/「五山」(京都五山、鎌倉五山)を制定
足利義満の後、息子の足利義持(在位1394~1423)が4代将軍になるが、
父・義満の死後、その政策を否定し、日明貿易を中断した(6代足利義教の時に再開)。
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3代義満よしみつ・4代義持よしもち・6代義教よしのり の語呂合わせ
「室町時代は足利義満からがみもの」
大将軍・義満→父嫌い・義持→くじびき・義教
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室町幕府の仕組み
●管領(かんれい):室町幕府で最も大事な職。将軍と守護大名を調整する。
―三管領:細川、斯波(しば)、畠山の足利系の3家からしか管領は選ばれなかった。
細川氏:足利義満の下で、細川頼之が管領。細川勝元は応仁の乱の東軍の将。その後、徳川に属す。
斯波氏(しばし):内紛で衰え、今川、織田に領土を奪われた。
畠山氏:鎌倉幕府の有力御家人だった。応仁の乱の後衰えた。
●侍所(さむらいどころ):室町幕府の武士の統率機関+京都の警備
―所司(しょし):管領に次ぐ重要な職。侍所の長官。四職から任命。
―四職(ししき):山名、赤松、一色、京極、(土岐)
・山名氏:新田氏の一族。
・赤松氏:播磨(兵庫県)の守護。
・一色氏:若狭(福井)、丹後(京都)
・京極氏:近江等の守護。
●政所(まんどころ):財政機関。長官は伊勢氏4が世襲。
●問注所(もんちゅうじょ):訴訟・記録の保管など。長官は三善氏が世襲。
●鎌倉府:鎌倉や関東8カ国+伊豆+甲斐、東北を管理する機関。
―足利基氏(もとうじ):尊氏の子。初代・鎌倉公方
―鎌倉公方(くぼう):鎌倉府の長官。
―関東管領:鎌倉公方の補佐役。(南北朝期後半から)上杉氏が世襲。
●九州探題(鎮西探題):尊氏が上洛する際、一色氏を置いたのが始まり。
●奥州探題:足利尊氏が設置。後に奥州探題と羽州探題に分立
●羽州探題:出羽国等。斯波氏の子孫・最上氏が世襲
・奉公衆9:室町幕府の直轄軍。
室町幕府の財源
●御料所(ごりょうしょ):室町幕府の直轄地。近畿、東海の荘園など。
●土倉役(どそうやく):京都の土倉に課した税金
●酒屋役(さかややく):京都、奈良の酒造業者への税金。
●段銭(たんせん):田んぼ単位の税金
●棟別銭(むなべつせん):一軒(戸別)単位の税金
●関銭(せきせん):関所の通行税
●津料(つりょう):港や津(船の発着場)で徴収した関銭

勘合貿易と倭寇の活動と東アジアの情勢
元寇(蒙古襲来)後も、(国交はないものの)日元貿易は活発だった。
(元寇(モンゴル襲来):1274年・文永の役、1281年・弘安の役)
元(1271~1368)が滅びると、漢民族の明(1368~1644)が建
国された。また、朝鮮半島では高麗が滅んで李氏朝鮮(1392~1910)
が建国され、沖縄では、琉球王国(1429年)ができた。

●明(1368~1644):朱元璋(しゅげんしょう):太祖洪武帝7が元を倒して建てた漢民族の王朝。
北虜南倭に苦しめられる。
●李氏朝鮮(1392~1910):高麗の武将・李成桂が独立して建国。倭寇の撃退で名を上げた
●琉球王国:北山、中山(ちゅう)、南山の「三山」が分裂していたのを中山の
尚巴志(しょうはし)が1429年にまとめて建国。
1609年薩摩(島津)に征服される。1879年沖縄県設置で日本に属した。
グスク(城):沖縄・奄美に見られる城砦。首里が首都。首里城。
(那覇は首里の港で琉球貿易の拠点)
東アジアでこれらの国家ができていた14~15世紀、海で海賊的に活動した
集団が倭寇(わこう)。
■倭寇:13~16世紀、朝鮮・中国沿岸を荒らした日本人系の海賊集団。
九州や瀬戸内海の豪族・商品出身が多い。私貿易→海賊行為。
―前期倭寇:南北朝期。壱岐、対馬等の商人に高麗人も加わった武装集団。
日明(勘合)貿易開始で沈静化。
―後期倭寇:勘合貿易廃絶(1555年)頃から再度激化。日本人よりも中国人が多い

倭寇を恐れた明は、私貿易を禁止し、室町幕府に倭寇の取締りを求めました。
足利義満はそれに応えて、九州探題に倭寇の取締りを命じます。
その結果、明との国交が開かれ、日明貿易・勘合貿易につながりました。
・勘合貿易(日明貿易):1404年義満。勘合。底簿。日字勘合。本字勘合。

勘合で倭寇と正規の貿易船を見分けた。

日明貿易(勘合貿易)の輸出入品。
・朝貢貿易:明は対応な交易ではなく、従属国が貢物を持って使者を送ってきて、
天子(皇帝)が返礼品を返すという形(朝貢貿易)をとった。そのため、足利義満
は「日本国王臣源」と名乗り、返書で「日本国王源道義」と返ってきた。
・日朝貿易:対馬の宗氏(守護)のもとで14世紀末から約100年続いた。
綿布・木綿が輸入され、銅・硫黄などが輸出された。
・三浦(さんぽ):日朝貿易の拠点となった朝鮮半島南部の三港。乃而浦(ないじほ)
(現・熊川)・富山浦(ふざんほ)(現・釜山)・塩浦(えんほ)(現・蔚山)の3港

・応永の外冦:1419年倭寇を恐れた朝鮮が対馬を攻めた事件。一時日朝貿易中断も再開。
・三浦(さんぽ)の乱:1510年三浦に住む日本人居留民が起こした反乱。以降、日朝貿易は衰退
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【15世紀頃の蝦夷地(東北・北海道)】
国内の蝦夷地にはアイヌがいた。和人(シャモ)が蝦夷地に移住した。
1457年アイヌの大首長コシャマインが和人の進出に対して、(現在の函館付近)乱を
起こした(コシャマインの戦い)が、蠣崎氏(かきざきし)が鎮圧した。
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5 15世紀(1401年~99年)は「一揆」(農民の反乱)の時代:惣村・守護大名・荘園
惣村(惣:そうそん、そう)が形成される
室町時代には、惣村(そうそん)という農村共同体
ができていた。(惣=すべてのもの・全体)

●寄合:惣の自治機関。村民代表が集まり、一揆、惣掟などを話し合う
●おとな(乙名・長):惣の自治運営代表者。名主、地侍で世襲。(沙汰人)
●地侍(じざむらい):土着した下級武士。
●惣掟(そうおきて):惣・村の掟。
●入会地(いりあいち):惣の共有地。
●用水:水田を灌漑するための水の確保、配分。惣の重要な役割。
●地下請(じげうけ):領主から荘園の年貢徴収などを請け負う事(百姓請)
●宮座(みやざ):神社組織。一揆の結団式など。一味神水。
●一味神水(いちみじんすい):一揆などの際、惣の村民が一致団結をはかる儀式
土一揆(つちいっき)
農民たちは、不満がある場合、当初は領主のもとにおしかける、
強訴(ごうそ)をした(年貢減免、地頭の交代要求など)。
あるいは、村全体で耕作を放棄する逃散(ちょうさん)など
で抵抗した。
守護の力が強まり、守護大名的な存在が出てくると、農民達は、
より積極的な行動に出た。それが、一揆・土一揆
●一揆:武士・農民が集団を結成し、一味神水などで結束し行動する事
●土一揆(つちいっき):惣を基盤にした土民の荘園領主・守護大名に対する反抗活動。
年貢・夫役の減免要求、高利貸し(酒屋、土倉)業者、幕府への徳政要求など。近畿で多かった。
●正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき):1428年近江坂本の馬借が徳政を要求して始まった。
京都周辺の農民が参加して大きな土一揆になった。足利義持→義教の交代の時。徳政碑文。
『大乗院日記目録』:1065~1504年頃の記録。土一揆などが詳しく書かれている
●徳政一揆(とくせいいっき):徳政令を求める一揆。畿内で多かった。
―徳政令:借金の帳消し、債務の破棄などを認めた法令
―徳政:借金の帳消し、債務の破棄などを(幕府などが)認めること
―私徳政(しとくせい):寺社など、一部で独自に認められる徳政
6 応仁の乱(1467年)と室町幕府の弱体化
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3代義満よしみつ・4代義持よしもち・6代義教よしのり の語呂合わせ
「室町時代は足利義満からがみもの」
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応仁の乱の前段:足利義持→足利義教(よしのり)
4代将軍・足利義持(在位1394~1423)の後、(5代はすぐ死亡)6代
将軍・足利義教(よしのり)(在位1429~41・くじびき将軍)が天台宗
の僧侶から還俗(出家の反対)して将軍になるが、正長の土一揆(1428年)
などを見て、将軍権力強化+守護大名押さえ込みをはかる。それに恐れを
なした播磨の守護大名・赤松満祐(みつすけ)に自宅に招かれ、そこで
殺される(嘉吉の乱・かきつ)(1441年)
足利義教(よしのり)の死後、室町幕府は守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)
の二大勢力が争う時代になった。

応仁の乱:山名持豊(宗全)vs細川勝元
応仁の乱(1467~77年)・語呂合わせ「ひとよむなしい応仁の乱」
8代将軍・足利義政(在位1449~73)の妻・日野富子に男子が生まれて、
「(息子の足利)義尚(よしひさ)を将軍にしたい!」(富子)
と言い出して、次期将軍に決まっていた、足利義視(よしみ)を
追い落とそうとして始まったのが応仁の乱(次期将軍を巡る争い)。
義政はどっちつかずの態度(これがあかんやろ)。京都の町が火の海に。

日野富子の像
形としては足利義尚(よしひさ)が9代目将軍になるが、
室町幕府は実質的に崩壊し戦国時代になる。

●細川勝元:1430~73。管領。応仁の乱、東軍の将。勝敗決まる前に死亡。
―畠山政長:管領・畠山持国の甥
●山名持豊(宗全):1404~73。西軍の将。日野富子と足利義尚(よしひさ)派。陣中で死去
―畠山義就(よしなり):畠山持国の子供
●山城の国一揆:1485年京都の南山城で畠山政長と畠山義就の二派が争っていたが、
アホらしいと感じた、国人・土民が両派を追放。宇治平等院で集会を開いた。
●一向一揆(いっこういっき):15世紀末~16世紀。本願寺一向宗の一揆
―加賀の一向一揆:1474年に加賀(石川県)で始まり、100年間、国人、坊主、農民の寄合が自治。
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応仁の乱の混乱以降、本格的な下克上(げこくじょう)の時代に。
「ワイは清和源氏の正統の子孫やぞ!」(武田勝頼)みたいなブランドは通じない、
実力の世界になっていく。
守護大名や、農民たちの土一揆や、長年力を持っていた仏教・僧兵や、出てき
つつあった商人(堺など)や、かろうじて生きながらえていた室町幕府(足利将軍)
などをすべて武力で叩き潰し、飲み込む魔王のような男、パワーとイノベーションと
テクノロジーで戦国時代をまとめ上げようとしたスーパースター、
そうあの織田信長が出てくるのは、次のお話・・・。

