江戸時代初期は「武断政治」(家康・秀忠・家光)「管理国家・身分国家」江戸のパーフェクトコントロール!―中学受験+塾なしの勉強法

1 江戸時代(1603年~1867年)の概略

2 江戸時代①「武断政治」(家康・秀忠・家光)

 

江戸時代は1603年~1867年と実に長いので分けます。

この記事では初代・徳川家康、2代目・徳川秀忠、3代目・徳川家光

までの江戸時代初期をまとめます。ポイントは、徳川家康が、「戦(いくさ)

のない世の中」にするためにいかに「パーフェクトコントロール」を敷いた

のかという視点です。

江戸時代の概略」がまだの方は先に読んでから個々の部分を読んでください。

 

江戸時代初期の基本年表

1600年 関ヶ原の戦い(現在の岐阜県) 東軍勝利

1603年 江戸幕府開く(家康が征夷大将軍に)

1605年 徳川秀忠が2代目の将軍に。家康は大御所。実権は家康

1612年~13年 禁教令(幕府直轄領にキリスト教禁止/13年に全国に)

1614年 大坂の陣(冬):大坂城の掘りを埋める

1615年 大坂の陣(夏):真田幸村の奮戦もかなわず豊臣家滅亡(秀頼、淀殿自害)

同年:武家諸法度、禁中並公家諸法度

1616年 徳川家康死去・・・

1623年 徳川家光が3代将軍に。しばらくは秀忠が大御所としていたが、

     親父が死んだら、「ワイは産まれながらの将軍や、ビシバシやるで」

     春日局(かすがのつぼね・家光の乳母)「がんばって!」

1635年 参勤交代を制度化(徳川家光の時)

1637年 島原の乱(長崎県での反乱)

1639年 「鎖国」の完成

1651年 徳川家光死去

 

江戸時代初期は「武断政治」(家康・秀忠・家光)+幕藩体制の確立

「管理国家・身分国家」江戸のパーフェクトコントロール!

●全般に対しては「士農工商えた非人」→身分固定

●武士に対しては「武家諸法度」「参勤交代」等

●農民に対しては「五人組」:農民は生かさぬよう殺さぬよう

●宗教はキリスト教禁止(踏絵)+本山・末寺制度(檀家、寺請制度)+儒教(朱子学)

●対外的には「鎖国」(管理貿易):長崎の出島(オランダ、清)、対馬(朝鮮)、松前(アイヌ)、薩摩(琉球)

●公家に対しては「禁中並公家諸法度」:公家はお勉強だけしてろ

基本的には上記の仕組みを家康・秀忠・家光の3代でほぼ完成させます。

江戸時代初期は「武断政治」(ぶだんせいじ)と言われます。厳しいです。

幕府+藩(藩主が大名)の仕組みなので、幕藩体制11とも言います。

江戸幕府(1603~1867)ができたばかりで、「最初が肝心」という

感じだったのかもしれませんね。

将軍で言うと、

家康(1542~1616、将軍在位1603~05)関ヶ原、大坂の陣、大御所11

秀忠(在位1605~23):武家諸法度11、禁中並公家諸法度11、禁教令11

家光(在位1623~51):産まれながらの将軍!参勤交代11、鎖国完成、島原の乱8

です。

バシバシ大名をクビ(改易・かいえき11)や減封(げんぽう)11・転封(国替え)11にします。

厳しいルールを定めます(武家諸法度、禁中並公家諸法度)。

金を使わせます(参勤交代)。

対武士は「武断政治」で大名を厳しく統制(配置と監視・財力削減・武力削減)し、

対農民は「土地売買禁止」「五人組」「分割相続禁止」でコントロールします。

逆に言うと、その後4代~7代くらいは緩いです。

武士「大名・旗本・御家人」:幕藩体制の仕組み1

画像出典:https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12818/

江戸幕府+藩(260~270)の幕藩体制が江戸時代の基本です。

藩のトップがいわゆる「お殿様」で大名です。大名は将軍直属の家臣です。

●大名11:1万石以上の領地を与えられた「お殿様」。親藩、譜代、外様等に分かれる

 ・親藩11:徳川氏一門。御三家、御三卿、越前と会津の松平家etc.20家ほど

   ―御三家11:水戸、尾張、紀伊

 ・譜代11:関ヶ原以前(後もいる)から徳川家の家臣。彦根藩・井伊の35万石が最大。150家ほど

 ・外様11:関ヶ原後に仕えた。石高は大きくても江戸から遠くに配置。加賀100万石(前田家)

●旗本11:将軍に会える(御目見え)。1万石未満。「旗本8万騎」2と言われた。

●御家人11:将軍に会えない(御目見え不可)。旗本の下。

 

これらの大名、旗本、御家人などを「武家諸法度」11や「一国一城令」9で管理。

武家諸法度は1615年・秀忠が最初だが、将軍の代替わりごとに発令。

 

幕府内の仕組み:幕藩体制の仕組み2

出典:http://www.hello-school.net/haroreki010.html

●大老11:非常の時に老中の上に置く。(将軍以外では)幕府の最高職。

●老中11:(普段は)老中がトップ。4~5人。

●若年寄11:老中補佐

●大目付11:大名の監視。老中の下に置かれた

●三奉行11:寺社奉行、勘定奉行、町奉行

●京都所司代11:朝廷や西国の外様大名などの監視

 

上記の役職などは外様大名は基本的につけなかった。

 

1家康(1542~1616、将軍在位1603~05):関ヶ原、大坂の陣、大御所

徳川家康 - Wikipedia

徳川家康(1542~1616)(将軍在位1603~05)

 

家康は、以後260年強続く江戸幕府の基礎を固めて死んでいきました。

「パーフェクトコントロール」を敷いた偉大な政治家ですね。

1600年の関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、1603年に江戸幕府を開きます(征夷大将軍)。

ポイント!関ヶ原の戦い後も豊臣家(秀頼と淀殿)はまだ大坂城に健在です】

片方で江戸幕府の体制を固めつつ、もう片方で「いつ豊臣家を潰そうか」と

考えていたものと思われます。

受験勉強上のポイントは、徳川家康は1603年に征夷大将軍になり、1605年には

徳川秀忠に将軍職を譲っている事です。その後は大御所(将軍を引退した人)と

して実権を握っていました。

ですから、大坂の陣(冬が1614年・夏が1615年)も将軍は秀忠です。ただし、実質の

トップは当然「大御所」家康です。

また、有名な武家諸法度(1615年)も禁中並公家諸法度(1615年)も、

秀忠が将軍の時に出されています(おそらく実質はすべて家康がやったと思いますが)。

なんにせよ、最大の懸案だった西の豊臣家を滅ぼして、1616年に家康は死亡します。

死去した後は(地元静岡の)久能山に葬られ、翌年に有名な日光(栃木県)に改葬

されました。今でも日光東照宮は有名ですよね?家康が東照大権現としてまつられ

ているからです。

●関ヶ原の戦い(1600年):東軍・徳川家康vs西軍・石田三成

●大坂の陣(1614冬・1615夏):方広寺鐘問題6でいちゃもんをつけ開戦

家康の時代に幕藩体制の基礎(パーフェクトコントロール)は敷かれていたと言えるでしょう。

 

2 徳川秀忠(在位1605~23):武家諸法度、禁中並公家諸法度、禁教令

徳川秀忠 - Wikipedia

徳川秀忠(在位1605~23)(生没年1579~1632)

徳川秀忠は家康の3男で江戸幕府2代目の将軍です(家康の長男・信康は大魔王・

織田信長によって自刃させられています…、次男・秀康は秀吉の養子・人質でした)。

そんな秀忠、偉大なる父の後を継いで、徳川幕府安定のために働いたので、

家康の死後はプレッシャーも相当あったでしょう。

徳川秀忠のポイント。

1600年 関ヶ原の戦いに遅参(上田城で真田昌幸・幸村親子に足止めされる)

1605年 2代目将軍に。家康が死ぬまで(1616年)実権はなかった

1614年 大坂冬の陣

1615年 大坂夏の陣

同年  武家諸法度(ぶけしょはっと)、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

    一国一城令

1623年 徳川秀忠は隠居して大御所に

1632年 死去

秀忠の将軍時代には大事な事が目白押しですが、家康が死ぬ(1616年)

前は実権は大御所・家康が握っていました。家康の死後は、それなりに

色々とがんばったという感じでしょうか?

最大の仕事は、父・家康が敷いた「パーフェクトコントロール」を

軌道に乗せるという事だったかもしれません。

父を真似て?将軍職を家光に譲り、「大御所」として活動しました。

 

3 徳川家光(在位1623~51):産まれながらの将軍!参勤交代、鎖国完成、島原の乱

徳川家光は、

「ワイは産まれながらの将軍や、ビシバシやるで」

と言って、熊本の加藤家(加藤清正が建てた熊本城が有名)を改易(おとり潰し)

にした事や、乳母の春日局(かすがのつぼね)、参勤交代の制度化(1635年)で

知られています。

また、あまりにも武断政治が厳しかったからか、島原の乱(1637年・キリシタン農民

の一揆)が起こったのも家光のときです。

●参勤交代(1635年)11:大名は江戸と国元に1年交代で住む。妻子は

人質として江戸に住む。お金がかかるので大名は窮乏。逆に宿場町や江戸は栄えた。

 

●島原の乱/島原・天草一揆(1637年~38年):キリシタン農民の一揆

天草領主と島原領主の圧政に抗議。天草四郎時貞11がリーダー。

(現在の長崎県)島原地方、島原半島突端の原城跡10にろう城。幕府を困らせる。

なお、「天草」は現在の熊本県。

「鎖国」(管理貿易)は4つの窓口

「鎖国はあったなかった」といった議論がされるようですが、事実は

江戸時代には外国との窓口が4つあった。それを「鎖国」とみるか

どうかは自分で考えろ!」って事でしょうか?管理貿易ですね。

事実を知らずにあ~だこ~だいっても始まりませんから。

【南蛮貿易→朱印船貿易→禁教→鎖国(窓口4つ)】

「鎖国」は「禁教」(キリスト教禁止)とセットで理解してください。

鎖国に至るまでの流れ(南蛮貿易→朱印船貿易→禁教→鎖国)

南蛮貿易(戦国時代・織田信長)

1543年のポルトガル人による鉄砲伝来以来、ポルトガル人や

スペイン人を相手にした南蛮貿易が行われていました。

(輸入:鉄砲、火薬、生糸、絹織物等/輸出:銀)

朱印船貿易(豊臣秀吉・徳川家康)

秀吉の頃から、政府(幕府)が発行した朱印状11を持った船による朱印船貿易11

が行われだしました。中国、東南アジアなどが相手国です(輸入:生糸、輸出:銀)

ただし、秀吉は晩年朝鮮出兵等、朝鮮や中国(明)との関係は悪くなります。

家康が平和外交をしたので朱印船貿易は徳川家光の時代・1635年まで続きました。

徳川家康の平和外交(南蛮人→紅毛人)

家康は秀吉と違い平和外交をしました。

1600年にオランダの船・リーフデ号10が豊後に漂着すると、

ウィリアム・アダムズ(三浦按針・あんじん/英国人)11とヤン・ヨーステン

(耶揚子・やようす/オランダ人)10を江戸に招いて外交・貿易顧問として

使いました。三浦按針は三浦半島に領地を与えられ、二人とも朱印船貿易に

従事し、長崎の平戸商館10設立に活躍しました。

【ポイント!江戸初期から南蛮人(ポルトガル・スペイン)→紅毛人(イギリス・オランダ)】

カトリックの南蛮人はキリスト教の布教もセットでしたが、紅毛人はプロテスタント

(イギリスは厳密には英国国教会ですが)なので、商売のみ!という事だったのでしょう。

なお、マカオ経由で中国産の生糸を持ち込み暴利をむさぼっていたポルトガル船に

対して、糸割符制度(いとわっぷせいど)8という生糸の輸入制限をしたのは1604年です。

朝鮮とは対馬藩の宗氏を通じて国交を回復し、1607年~1811年の間に

「朝鮮通信使」が12回来日しています。

「鎖国」完成前は、上記のように平和外交路線だった事もあり、日本人の

海外進出はさかんでした。

17世紀初期、ルソン(呂宋)11(現在のフィリピン)、アンナン(安南)9

(現在のベトナム)、シャム(現在のタイ)など、東南アジア各地に日本町8

が作られました。山田長政8などはシャムのアユタヤ王朝で大出世をしました。

禁教

諸国と貿易(マネ~マネ~!)はしたいが、同時にキリスト教の広がりも抑えたかった

家康(将軍は秀忠)は1613年禁教令(キリスト教禁止令)10を出しました。

その結果、貿易も徐々に管理貿易(鎖国)に向かっていきます。

「鎖国」は4つの窓口

1633年(徳川家光):最初の鎖国令。奉書船11のみ渡航。5年以上海外にいる者の帰国禁止

1635年(徳川家光):日本人の海外渡航・帰国の禁止⇒朱印船貿易の終了

(1637年 島原の乱)

1639年 最後の鎖国令。ポルトガル船の来航禁止⇒南蛮貿易の終了(以後、貿易相手はオランダと清)

1641年 オランダ人の出島移住(鎖国の完成)

「鎖国」=外国との管理貿易です。

「パーフェクトコントロール」の家康(とその子孫)、管理が好きですね~。

江戸時代の「鎖国・管理貿易」の窓口は4つです。

長崎の出島(オランダ、清)、対馬藩(朝鮮)、松前藩(アイヌ)、薩摩藩(琉球)

若干映りが悪いですが・・・

長崎(平戸→出島):幕府直轄。清、オランダ(蘭)のみ

対馬藩:宗氏が朝鮮と交易。

薩摩藩:島津氏が琉球と交易。密貿易も多数だったもよう

松前藩:松前氏がアイヌと交易。

刀剣ワールド】北海道・東北地方(2ページ目)|主な江戸100藩

 

江戸時代の人口について

江戸と言えば、人口100万人の大都市(当時は世界トップクラス)として

知られています。日本全体では(諸説あるものの、だいたい)以下のように

推定されています。

1600年前後(江戸幕府開始)1200万人くらい

18世紀前半(享保の改革等)3000万人くらい

19世紀半ば(幕末)    3300万人くらい

 

まとめ

江戸時代初期の基本年表

1600年 関ヶ原の戦い(現在の岐阜県) 東軍勝利

1603年 江戸幕府開く(家康が征夷大将軍に)

1605年 徳川秀忠が2代目の将軍に。家康は大御所。実権は家康

1612年 禁教令(幕府直轄領にキリスト教禁止)

1614年 大坂の陣(冬):大坂城の掘りを埋める

1615年 大坂の陣(夏):真田幸村の奮戦もかなわず豊臣家滅亡(秀頼、淀殿自害)

同年:武家諸法度、禁中並公家諸法度

1616年 徳川家康死去・・・

1623年 徳川家光が3代将軍に。しばらくは秀忠が大御所としていたが、

     親父が死んだら、「ワイは産まれながらの将軍や、ビシバシやるで」

     春日局(かすがのつぼね・家光の乳母)「がんばって!」

1635年 参勤交代を制度化(徳川家光の時)

1637年 島原の乱(長崎県での反乱)

1639年 「鎖国」の完成

1651年 徳川家光死去

 

江戸時代初期は「武断政治」(家康・秀忠・家光)+幕藩体制の確立

「管理国家・身分国家」江戸のパーフェクトコントロール!

●全般に対しては「士農工商えた非人」→身分固定

●武士に対しては「武家諸法度」「参勤交代」等

●農民に対しては「五人組」:農民は生かさぬよう殺さぬよう

●宗教はキリスト教禁止(踏絵)+本山・末寺制度(檀家、寺請制度)

●対外的には「鎖国」(管理貿易):長崎の出島(オランダ、清)、対馬(朝鮮)、松前(アイヌ)、島津(琉球)

●公家に対しては「禁中並公家諸法度」:公家はお勉強だけしてろ

基本的には上記の仕組みを家康・秀忠・家光の3代でほぼ完成させます。