出典:国立国会図書館
「幕末」(江戸時代末期)はゴチャゴチャと分かりづらいと思いますが、主要登場人物・組織は以下です。
【「維新三傑」:西郷隆盛(薩摩)・大久保利通(薩摩)・木戸孝允(桂小五郎/長州)】
【勝海舟(幕臣だけど改革派)、坂本龍馬(土佐藩脱藩)、徳川慶喜(最後の将軍)、岩倉具視(公家)
【幕府】【雄藩(薩摩・長州)】【外国(米、英、仏、蘭、露)】
【孝明天皇(位1846~66):外国大嫌い!公武合体)
坂本龍馬
また、幕末の考え方の流れは
【尊王攘夷(尊王:日本は天皇の国や!+攘夷:外国人排斥):外国人やっつける!】
【公武合体:公(朝廷・天皇)武(幕府)が提携して改革しよう!】
【討幕・倒幕:江戸幕府倒さないとあかんな】
の3つを基本に見れば大丈夫です。
ポイントは、同じ人(西郷隆盛でも坂本龍馬でも)や組織(薩摩や長州)
でも、状況に応じて考え方が変わっていく所です。
基本的には、【尊王攘夷→公武合体→討幕】という流れになります。
・薩摩:尊皇攘夷→薩英戦争→公武合体→薩長同盟→討幕
・長州:ずっと尊皇攘夷!孤立!潰れる直前!1866薩長同盟→討幕
・幕府:「陽だまりの樹」。何もできず。尊皇攘夷→公武合体→薩長に負ける
・勝海舟、坂本龍馬:日本はこのままではあかんぜよ。日本を今一度せんたくするぜよ
・岩倉具視(ともみ)(公家):公武合体→倒幕。一時、孝明天皇により謹慎させられていた
幕末の基本年表
1853年 ペリーが浦賀に来航
1854年 日米和親条約(下田と箱館(当時はこの字)を開港)
1858年 日米修好通商条約:井伊直弼の独断(孝明天皇が激怒)→安政の大獄
1860年 桜田門外の変で井伊直弼暗殺
1862年 生麦事件:薩摩藩がイギリス人を殺傷→薩英戦争(1863年)
1863年8月18日:8月18日の政変(長州藩と尊皇攘夷派の公家が京都から追放)
→池田屋事件(新撰組が長州藩等の天皇誘拐未遂事件を防ぐ)1864年
→禁門の変(蛤御門の変)1864年
1863年:長州藩外国船砲撃事件→1864年 四国艦隊下関砲撃事件
1864年 長州征討(第一次)
1866年 薩長同盟
1867年 10月14日大政奉還→(竜馬暗殺)→12月王政復古の大号令(江戸幕府滅亡)
(参考年表:国立国会図書館)
「幕末」の流れ(中学受験用):【尊王攘夷→公武合体→討幕】
ペリーの来航から開国:尊皇攘夷!
1853年のペリー来航、54年の日米和親条約から本格的に外国との
関係が始まり、「尊王攘夷」(尊王:天皇崇拝+攘夷:外国人排斥)
運動が巻き起こります。
1858年、アメリカ領事のハリスの圧力に屈して日米修好通商条約が
彦根藩主で大老の井伊直弼の独断で結ばれ、本格的に「開国」になっ
ていきます。外国人大嫌い!(攘夷!)の孝明天皇は激怒しますが、井伊
は、反対派の大名や倒幕の志士を大弾圧し、長州の吉田松陰や福井藩の
橋本佐内らが処刑された(安政の大獄・1858~59)。
井伊直弼はあまりにも無茶だったので、1860年弾圧された水戸藩士等に
暗殺されます(桜田門外の変)。
尊王攘夷派はかなりたくさんいましたが、アメリカをはじめ、産業革命を
すでになしとげていた欧米列強は非常に強いので、だんだんと、「現実的に
考えて攘夷無理じゃね?」となってきます。
公武合体(「攘夷むりじゃね?」)
狂信的に「尊王攘夷!!!!」を唱えていた長州藩が孤立し、幕府と朝廷が力を
合わせて何とか改革していこうという流れが強くなります(公武合体)。
一方で、1863年、長州(長州藩外国船砲撃事件11→1864年四国艦隊下関砲撃事件)
と薩摩(薩英戦争・1863)は、直接外国と戦いますが、力の違いを痛感して、
「これ攘夷無理じゃね?」
となっていきます。また、イギリスも薩摩隼人のあまりの士気の高さに驚いた
のか、「これ、今後は江戸幕府じゃなくて、薩摩と長州がくるんじゃね?」と
なったのか、薩摩に接近します。薩長はイギリスがバック、幕府はフランスが
支援します。
長州の孤立:8月18日の政変→禁門の変→長州征討(第一次)
さらに一方で、「あかん、あかん、あいつら危なすぎるわ」という事で、
あまりにも急進的な尊皇攘夷派の長州と長州派の公卿(朝廷の公家)
が、1863年8月18日に京都から追放されます(「8月18日の政変」11)。
その長州追放を担ったのが、公武合体派の会津藩や薩摩藩でした。
追放された事に怒った長州は、1864年禁門の変(蛤御門の変)を起こします。
が、ここでも薩摩、会津、桑名などの藩に負けます。
そして、「禁門の変」を理由に、幕府によって「長州征討(第一次)」(1864年)
が行われます。その時の幕府側のトップが薩摩藩の西郷隆盛でした。
ですので、1864年頃は、長州藩にとって薩摩は「にっくきあんちきしょう」
だったわけです。長州藩では、この頃は、さすがに穏健派が藩を握っていまし
たが、高杉晋作等の急進派がクーデターを起こし、長州藩の中心に返り咲き、
藩論を討幕・倒幕にします。彼の作った奇兵隊は「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」
と下駄に書いて踏んづけて歩いていたとか。
こうなると、1864年の状況は
●幕府弱い/薩摩は公武合体寄り/長州やばいつぶれそう●
という事になります。
薩摩としては、このまま公武合体路線で行っても、江戸幕府がある限り外国勢力
からの進出には耐えられないだろうという感じだったかもしれません。
坂本龍馬・薩長同盟(1866)・倒幕へ
幕臣(将軍の家臣)の勝海舟などかなり先見の明のある一部の人たちは、
「雄藩(力のある藩)による連合政権」の構想を持っていたようですが、
(すでに書いたように)薩摩と長州は超仲が悪い(かった)です。
特に長州側からすれば、「薩摩と手を結ぶくらいなら高杉晋作の奇兵隊と
ともに潔く散ろう(死のう)」と思っていたかもしれません。
「男は見栄で生きてるんだよ!」(『北の国から』のそうた兄ちゃん)
薩摩と長州を結ぶ?無理無理。そんな事口に出したら殺されちゃうよ。
ここに登場するのが坂本龍馬です。
(受験勉強的にロマンをだいぶ省いて書くと)
土佐藩を脱藩した素浪人(当初は何者でもありません。まさに浪人)である龍馬
は、海援隊を使って、薩長の利害をうまく調整し(長州には薩摩のお金で
海援隊が買った武器を渡し、薩摩には長州藩の米を贈る)、
奇跡的に薩長同盟(1866年)を成立させます。
薩長同盟成立で流れは一気に倒幕になりました。
あとは、武力倒幕か穏健に倒幕するかという違いです。
武力倒幕派(薩摩と長州)は徳川家・幕府を完全に一掃して、新しい
政権を作るべきという考えです。
龍馬は穏健派なので、徳川も新政権にうまく取り込んで、なるべく
大きな戦いなしで新政権を作ろうと考えました。
その考えが「大政奉還」(徳川家が政権を朝廷に返す)です。
【薩長同盟も大政奉還も全部あれは竜馬が一人でやったことさ】(勝海舟)
薩摩と長州が突っ走るのを防ぐために、竜馬が考えた大政奉還の
アイデアが「竜馬→後藤象二郎(土佐藩家老)→土佐藩前藩主の
山内豊信(とよしげ・溶堂)」とつながり、徳川慶喜に
「これでどうでっしゃろ」と聞きます。
15代将軍・徳川慶喜は苦渋の選択でしたが、大政奉還を受け入れます。
時は1867年10月14日の事でした(13日に諸藩に報告、14日に朝廷に返上)。
これで、平和に政権移行ができるかと思われたのですが・・・。
1867年11月15日、薩長同盟、大政奉還の立役者、坂本龍馬が京都の
近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されます・・・・・・・・・・。
犯人は幕府(会津藩系)の京都見廻組とされていますが、いまだに
誰かは確定していません。薩摩と長州にも十分「動機」はありますね。
大政奉還→王政復古の大号令・小御所会議
さて、その後、「大政奉還」(幕府は「どうせ朝廷で政治はできないから
徳川家に頼むでしょ」という姿勢)という直球を投げられた薩摩と長州は、
とんでもない返球をします。
それが「王政復古の大号令」(1868年12月)というクーデターです。
「絶対徳川家は新政権に入れません!」という事です。
「王政復古の大号令」のクーデターの日の夜に行われた「小御所会議」で
一気に薩摩と長州がかたをつけ、徳川家は完全に新政権から放り出されます。
この小御所会議の時に土佐の山内溶堂は徳川家を何とか新政権にと粘ったよう
ですが、小御所の外を守っていた西郷隆盛はそれを聞いて
「短刀一本あれば済む話でごわす」(グタグタ抜かすとやっちまうぞ)
と言ったとか言わないとか。
こうして幕末の動乱は、江戸幕府・徳川家の完全な排斥としてまずは幕を
引く事になります(が、すぐ翌年から戊辰戦争ですけどね・・・)
裏で取り回していたのは、薩摩の大久保利通や(謹慎から復帰後は)倒幕派
の公家の岩倉具視(ともみ)あたりでしょうか・・・