江戸時代は1603年~1867年と実に長いので、まずは概略を知って、

その後、詳細に入っていきましょう。家康の敷いた

「パーフェクトコントロール」

で260年以上も江戸時代は続きます。すご!

「江戸時代」をものすごく簡単にまとめると以下のようになります。

●江戸時代まとめ(1603年~1867年)●

【武断政治→文治政治→改革+家斉の散財→幕末】

江戸時代の260年間は、最初の3代(家康・秀忠・家光)で厳しくやって、

管理国家の基盤を作り(武断政治)ました。

その反動で反乱などが起きたので、少し緩め(4~7代・(6~7が文治政治))

その間に生類憐みの令(5代・綱吉)を挟んで財政が逼迫し、半ばから

後半は「改革」をしました。

「江戸中期~後期の改革」は「きたか徳川家斉天保!」の語呂合わせで覚えてください。

(享保の改革→田沼意次→寛政の改革→大御所時代(家斉)→天保の改革)

享保の改革(8代・吉宗)で何とか一息つきます。

その後、田沼意次(10代・家治の時)のワイロ政治の頃には商業が発達し、

「米」→金銭になっていき、寛政の改革(松平定信:11代・家斉の前半)

清潔にやろうとするも庶民がついてこず、家斉の大御所時代で大散財(奥さん40人・

子供55人!)。後始末を水野忠邦がやりますがこれもうまくいかず

(天保の改革・1841~43)、気づいたら幕末です。

1853年にペリーが浦賀にやってきて、ドタバタの幕末になり、

1867年には江戸幕府は滅びます

例え大学入試の日本史であっても、上記のまとめの基本が完璧に

なっていれば解ける問題ばかりです。基本を踏まえて細部に入って

いってください。

 

江戸時代・将軍15代の概略

1603年~1867年までの約260年間が江戸時代

将軍は15人:徳川家康(1542~1616)から徳川慶喜(よしのぶ)まで

●分け方は

①「1~3代」(厳しい・武断政治9):武家諸法度11、参勤交代11

②「4~7代」(緩い・文治政治10):元禄小判、生類憐みの令(5代)、6~7新井白石(朱子学)の正徳の治10

③「8~10代」(財政再建・享保の改革11):徳川吉宗(紀伊)→(10代家治の老中)田沼意次

④「11~13代」(11代家斉は50年将軍):寛政の改革(松平定信)→大御所時代→大塩平八郎の乱

            →天保の改革(水野忠邦・12代家慶)

⑤「14~15代」(大政奉還11・徳川慶喜):幕末

覚えるべきは、

家康(1542~1616、将軍在位1603~05):関ヶ原、大坂の陣、大御所11

2秀忠(在位1605~23):武家諸法度11、禁中並公家諸法度11、禁教令11

3家光(在位1623~51):産まれながらの将軍!参勤交代11、鎖国完成、島原の乱8

4家綱(在位1651~80):明暦の大火(振袖火事)10(以後、江戸城天守閣は再建されず)

5綱吉(在位1680~1709):生類憐みの令11(犬公方3)、元禄文化、儒学(朱子学)・湯島聖堂10

8吉宗(在位:1716~45):紀伊藩主。享保の改革11。倹約令11

11家斉(いえなり)(在位1787~1837):大御所政治。松平定信11を使う。側室40人・子供55人!

15慶喜(よしのぶ)(在位1866~67):大政奉還11。最後の将軍。

初代~3代:武断政治(きびしめ)でコントロール

徳川家康(1542~1616)~秀忠~家光までの3代は、体制を固めた時期。

対武士は「武断政治」で大名を厳しく統制(配置と監視・財力削減・武力削減)

対農民は「土地売買禁止」9「五人組」11「分割相続禁止」でコントロール

4代~7代:文治政治(ゆるゆる)

4代将軍・家綱の1657年に明暦の大火(振袖火事)10(以後、江戸城天守閣は再建されず)

5代将軍・徳川綱吉・犬公方(在位1680~1709)(生類憐みの令11)の頃から財政が苦しくなる。

元禄文化・元禄時代/側用人の柳沢吉保/湯島聖堂/天文方/元禄金銀(元禄小判)10)

新井白石11(儒教、朱子学):「正徳の治」10。6代目の家宣~7代目家継の時。

(元禄金銀(元禄小判)→正徳金銀8)

 

8代~10代:享保の改革・田沼意次

徳川吉宗(8代将軍。米将軍・米公方。紀伊の出身、分家):享保の改革(財政再建)

田沼意次(10代将軍・家治の老中)→重商主義・貨幣経済(賄賂)

 

11代~14代:やりたい放題の浪費家家斉・大御所時代

11代・徳川家斉(いえなり):将軍50年!(在位1787~1837)、妻40人、子供55人

前半は「寛政の改革(松平定信)」、後半は「大御所時代」

 

江戸時代の改革語呂合わせ:きたか徳川家斉・天保!

江戸時代も18世紀(1701~1800)以降になると、ほころびが

出てきて「改革」を余儀なくされます。その「改革」の覚え方です。

●江戸時代の「改革」の語呂合わせ:きたか徳川家斉・天保!●

「き」享保の改革:8代徳川吉宗(在位:1716~45)。米将軍

「た」田沼意次(おきつぐ):10代家治の老中。ワイロ政治。

「か」寛政の改革:松平定信。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」

「徳川家斉」(在位1787~1837):大御所時代。妻40人・子供55人!散財!ウェーイ!

「て」天保の改革:水野忠邦・12代家慶

【江戸の三大改革】享保の改革・寛政の改革・天保の改革

(全てに共通しているのは「ぜいたく禁止!(倹約令)」です)

享保の改革:8代徳川吉宗(在位:1716~45)米将軍・米公方

(まとめ)

【倹約させて、新田開発させて、米を上納させて、人材登用を促し、実用的なものを採用】

(内容)

倹約令11 ・新田開発11(武蔵野新田など) 

上米(あげまい)11:1万石につき100石米を上納。そのかわり参勤交代を半年に減らす

相対済し令(あいたいすましれい)11:金のもめごとは当事者同士で話し合え!

公事方御定書(くじかたおさだめがき)11:裁判基準。大岡忠相(ただすけ)11名裁判官。「大岡裁き」。大岡越前。

目安箱11:投書箱。小石川養生所11(現在の東京大学植物園)などができた。

足高の制(たしだかのせい)9:世襲ではなく能力で人材登用。足りない石高を在職中のみ加増

・年貢を検見法11→定免法11に:毎年一定の米が入ってくるようにした。

・実学8、甘藷(サツマイモ)9、朝鮮人参9、漢訳洋書輸入緩和10

(結果)

享保の改革はそれなりの成果をあげたとされる事が多いようですよ

寛政の改革(1787~1793):松平定信(吉宗の孫で元白河藩主の老中・11代家斉)

(まとめ)

【倹約させて、借金帳消しにして、江戸に来た農民を地元に帰して、朱子学以外を禁止にした!】

(内容)

・倹約令 ・囲米(かこいまい)10:飢きん対策として米をたくわせさせる。義倉9、社倉9

棄捐令(きえんれい)11:旗本、御家人の借金を帳消しにした

七分積金 (しちぶつみきん)11:町の運営費(町入用・ちょうにゅうよう9)を節約させその7割を積み立てた

人足寄場(にんそくよせば11):ようは刑務所!更正施設。石川島11の人足寄場が有名(隅田川河口)

寛政異学の禁10:儒学の朱子学を正学7とし、それ以外の学問を禁止。昌平坂学問所10

旧里帰農令(きゅうりきのうれい)10:江戸に流入した没落農民を地元(旧里)に返した

(結果)まあ、挫折?特に庶民からはそっぽをむかれたようですよ

「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」

天保の改革(1841~43):水野忠邦(浜松藩主、老中)・12代家慶(いえよし)

(まとめ)家斉の後始末で、江戸最後の改革。幕末の足音がすぐそこに・・・

天保の改革はアヘン戦争(1840~42)ときれいに1年ずれています。

中国では既に列強の侵略が始まっていたわけですね。

(内容)

・倹約令 ・風俗取締令4(ぜいたく禁止)

株仲間解散11:1841年物価高騰を抑制するため、ただ1851年に株仲間再興令7で復活

人返しの法11:強制的帰農令。農村からの出稼ぎ9が多かったが禁止され許可制に。

上知令(あげちれい)11:江戸・大坂周辺を幕府の直轄地にしようとしたが、反対され実施すらできず

(結果)

失敗。同じ頃、薩摩・長州ではコツコツと経済力を高め雄藩になってきてました

 

15代:大政奉還・徳川慶喜

15代・徳川慶喜(在位1866~67)

家康以来のパーフェクトコントロールも、幕末になり、ペリー(米)が

やってきて(1853年)、さらにはイギリス、フランス、ロシアなどか

らの外圧もかかり、内部は260年の太平を謳歌し、陽だまりの樹によっ

かかる幕府の旗本では対処しようがなくなり、一気に崩壊します。

江戸幕府を直接倒したのは、外様大名である、薩摩と長州を中心とし

た雄藩の同盟でした。

 

まとめ

●江戸時代まとめ(1603年~1867年)●

【武断政治→文治政治→改革+家斉の散財→幕末】

江戸時代の260年間は、最初の3代(家康・秀忠・家光)で厳しくやって、

管理国家の基盤を作り(武断政治)ました。

その反動で反乱などが起きたので、少し緩め(文治政治・4~7代)、

その間に生類憐みの令(5代・綱吉)を挟んで財政が逼迫し、半ばから

後半は「改革」をしました。

「改革」は「きたか徳川家斉天保!」の語呂合わせで覚えてください。

享保の改革(8代・吉宗)で何とか一息ついたものの、田沼意次(10代・家治の時)

のワイロ政治の頃には商業が発達し、「米」→金銭になっていき、寛政の改革

(松平定信:11代・家斉の前半)で清潔にやろうとするも庶民がついてこず、

家斉の大御所時代で大散財(奥さん40人・子供55人!)。後始末を水野忠邦がやり

ますがこれもうまくいかず(天保の改革・1841~43)、

気づいたら幕末です。

1853年にペリーが浦賀にやってきて、1867年には江戸幕府は滅びます