仏教伝来~飛鳥時代(推古天皇・聖徳太子)日本史5―「中学受験+塾なし」の勉強法

冒頭の「ポイント・基本」をまずはおさえてその上で個々の詳細に入りましょう。

中学入試問題は、基本的に詳細から出題されますが、まずは基本が大事です。

仏教伝来~飛鳥時代(推古天皇・聖徳太子)のポイント・基本

「仏教」がポイント!伝来・勢力争い・聖徳太子すべて「仏教」が大事

1 百済(朝鮮半島)経由で仏教が伝来する(538年

2 仏教を巡る争い(仏教派:蘇我氏vs神道派:物部氏)→仏教派が勝つ

3 飛鳥時代:推古天皇(在位592~628/33代)→乙巳の変(645)→大化の改新

      飛鳥の地(奈良県明日香村)に都のあった時代

4 聖徳太子(推古天皇の甥・摂政)

 4-1 改革者:冠位十二階(603)・17条の憲法(604)

 4-2 外交官:遣隋使(607)・小野妹子・「日出づる処の天子~~」

 4-3 建築家:法隆寺(607)

5 乙巳の変(645年・いっしのへん)→大化の改新

   蘇我氏の一族を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と

   中臣鎌足(なかとみのかまたり)が倒す

 

飛鳥時代に限らず、古代(古墳時代~平安時代)は、

【「天皇」「摂関(側近)」「仏教」】

この3つのせめぎあいの視点で見るとだいたい分かる。

 

古墳時代と飛鳥時代の「断絶」は①仏教が(本格的に)流入

               ②聖徳太子の改革(能力本位⇔氏姓制度)

 

1 仏教伝来(538年・百済から)

「仏教伝来」の画像検索結果

仏教伝来の図:http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/01.html

百済(くだら)11(朝鮮半島)から伝来(538年)

・北方仏教1(大乗仏教2):インド→西域→中国→朝鮮(百済)→日本

(仏教は「伝来ルート」が問われます)

試験では百済の位置(朝鮮半島の南西部)がよく聞かれます。

663年白村江(はくすきのえ)の戦いも百済の地です。

 

2 仏教を巡る争い(仏教派:蘇我氏vs神道派:物部氏)→仏教派が勝つ

538年に仏教が百済から入ってきて、ヤマト朝廷の中で、仏教を

使ってさらに勢力を伸ばそうとしたのが、大臣10の蘇我氏8

飛鳥11の地(奈良県明日香村7)で権力を強めた蘇我氏は、欽明天皇4

の妃に娘二人を送り込み、外戚11(天皇の母方の親戚)の地位を確立。

その後、皇位継承争いが起こり、587年に大臣の蘇我馬子11(?~626)が

反仏教派(神道派)で大連10の物部守屋(もののべのもりや)8を滅ぼす。

592年には崇峻(すしゅん)天皇11を暗殺→推古天皇が即位(592年・33代)

物部氏を滅ぼした蘇我馬子が建てたのが、

飛鳥寺(法興寺)11:蘇我馬子が飛鳥の地に建てた寺。飛鳥寺釈迦如来像7、飛鳥寺伽藍配置8

「飛鳥寺」の画像検索結果

「飛鳥寺伽藍配置」の画像検索結果

飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)

 

3 飛鳥時代:推古天皇(在位592~628)→大化の改新(645)

●飛鳥時代=飛鳥の地(奈良県明日香村)に都のあった時代

「飛鳥時代 地図」の画像検索結果

推古天皇11(在位592年~628年):最初の女性天皇。甥の聖徳太子を摂政に任命

「推古天皇」の画像検索結果

 

4 聖徳太子(推古天皇の甥・摂政):574年~622年

【聖徳太子は600年前後に活躍!】と覚えましょう。

聖徳太子(厩戸皇子(王)うまやとのみこ11)は、推古天皇の甥で摂政8。

592年に就任。蘇我馬子とともに政治を行う。

蘇我馬子・聖徳太子・推古天皇は全員親戚です。

仏教信仰+天皇中心の政治。

聖徳太子の業績は、

「改革者」→冠位十二階(603年)、17条の憲法(604年)

「外交官」→小野妹子を遣隋使として派遣

「建築家」→法隆寺を建てる

の3視点で覚えるといいです。

「聖徳太子 お札」の画像検索結果

1万円札の肖像画・聖徳太子(1958年~1984年)。5千円札も聖徳太子だった。

「聖徳太子いなかった説」→いたけど、全てを一人ではやっていないと思われます。

その後の乙巳の変(645年)で蘇我家が滅亡するので、『日本書紀』などでは、

聖徳太子をスターにしたのでは?

4-1 改革者・聖徳太子

冠位十二階の制11(603年):能力に応じて官僚を任命(vs氏姓制度)

 ・色別に6種を分けて、12階にする。色別の冠。

冠位8→「徳・仁・礼・信・義・智」7

憲法十七条11(604年):官僚への道徳訓が中心。「憲法」は権力を縛るもの

                             ①和②天皇大事③仏教敬え/「三宝=仏法僧」(仏教・経典・坊さん)

「憲法十七条」の画像検索結果

http://dreamsup.hatenablog.com/entry/2017/03/08/083819

『天皇記』『国記』7:聖徳太子が蘇我馬子と編纂したと言われる歴史書

4-2 外交官・聖徳太子

「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや(つつがなきや)。」

607年・推古天皇(聖徳太子)が遣隋使11として小野妹子11を派遣して、

隋(581~618)の煬帝(ようだい)9に送った国書(手紙)の書き出し。

隋(中国の強国)に対して、日本の独立宣言!をしたのが聖徳太子。

当時、中国(隋)=世界の中心(中華思想)。中国の皇帝以外は、

「王」(地方の支配者)というのが中国の認識(冊封(さくほう)体制)。

そこに「ワイら平等。うちの天皇とおたくの皇帝同じ立場やんか。という

ことで、日がのぼる処から、日が沈む所の(同じ立場の)天子(天皇と皇帝)

に手紙あげるわ。よろぴこ!元気でね」

という手紙を持たせて小野妹子を派遣。

当然、隋の煬帝は激怒。

が、日本を攻め滅ぼす等はできない。理由は、朝鮮半島の高句麗と争って

いたので、日本と仲良くする必要があった。聖徳太子は当然そこまで読み

切っていた。優れた外交官やね。

実際、隋の煬帝は608年答礼使として裴世清(はいせいせい)8を日本に

送っている。

「遣隋使 地図」の画像検索結果

http://tadatakitada.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

小野妹子11(おののいもこ)を遣隋使11として隋に派遣。607年。

 607~608、608~609の二回隋に行っている。隋の皇帝は煬帝(ようだい)。

「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」

 

4-3 建築家・聖徳太子

法隆寺11

607年に聖徳太子(と推古天皇)が建立。

奈良県の斑鳩(いかるが)に建てられたので別名「斑鳩寺(いかるがでら)8」。

法隆寺地域の仏教建造物(世界文化遺産)

・「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)

・世界最古の木造建築。金堂(こんどう)+五重塔+夢殿(ゆめどの)。

「法隆寺」の画像検索結果

法隆寺の金堂11(こんどう)と五重塔10

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法隆寺夢殿(ゆめどの)

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法隆寺金堂釈迦三尊像11:飛鳥仏の典型。聖徳太子の死後、妃や王子が作らせた

「法隆寺 玉虫厨子」の画像検索結果

玉虫厨子(たまむしのずし)11:法隆寺蔵。玉虫厨子須弥座絵8(しゅみざえ、日本最古の絵画)

が描かれている。

 

聖徳太子(574年~622年)の死後、蘇我馬子も4年後に死ぬが、蘇我氏

に権力は集中する。

 

5 乙巳の変・大化の改新(645年):蘇我氏の一族を中大兄皇子と中臣鎌足が倒す

乙巳の変(いっしのへん)・大化の改新(645年)の本質

1【内在する問題】蘇我氏(馬子→蝦夷→入鹿)があまりに横暴

【外圧】中国(唐)+朝鮮半島の緊張関係

→大和朝廷(日本)の政治改革が必要

・摂関政治→天皇中心(天智天皇(中大兄皇子))

・中央集権:公地公民

・元号が始まる:「大化」。元号=中国と対等に!

聖徳太子の死後・蘇我氏が絶大な権力を握る

蘇我馬子→蘇我蝦夷(えみし)11→蘇我入鹿(いるか)11

蘇我入鹿が、聖徳太子の子供・山背大兄王(やましろのおおえのおう)8を

斑鳩宮(いかるがのみや)で自殺に追い込む→乙巳の変・大化の改新の直接の原因

乙巳の変(いっしのへん)8・大化の改新11(645年):

蘇我蝦夷と蘇我入鹿を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と

中臣鎌足(なかとみのかまたり)が倒す

・氏姓制度の悪い所をやめようとした

11(隋のあと)の律令制を取り入れようとした

・天皇中心の中集権国家を作ろうとした(摂関政治→天皇中心にしようとした

乙巳の変2

中臣(藤原)鎌足11(なかとみの(ふじわらの)かまたり)614-669

・乙巳の変/大化の改新の中心人物。

孝徳天皇11を擁立

・(大化の改新政府では)内臣(うちつおみ)9の任務を任される

・死ぬ時に、(天智天皇から)藤原の姓を賜る

中大兄皇子天智天皇・てんじ)11:大化の改新→皇太子→天智天皇

・大化の改新(645年)後、年号(元号)9が始まる。「大化」9が最初とされる

難波宮(なにわのみや)11:飛鳥から遷都。現在の大阪市。

改新の詔(かいしんのみことのり)11:646年孝徳天皇11が難波で宣言。4カ条

「公地公民」11(土地・人民を朝廷の直接支配に)

2「地方制度」

3「班田収授」(戸籍)

4「税制」

 

仏教伝来~飛鳥時代(推古天皇・聖徳太子)のまとめ

「仏教」がポイント!:伝来・勢力争い・聖徳太子すべて「仏教」が大事

1 百済(朝鮮半島)経由で仏教が伝来する(538年)

2 仏教を巡る争い(仏教派:蘇我氏vs神道派:物部氏)→仏教派が勝つ

3 飛鳥時代:推古天皇(在位592~628)→大化の改新(645)

      飛鳥の地(奈良県明日香村)に都のあった時代

4 聖徳太子(推古天皇の甥・摂政)

 4-1 改革者:冠位十二階(603)・17条の憲法(604)

 4-2 外交官:遣隋使(607)・小野妹子・「日出づる処の天子~~」

 4-3 建築家:法隆寺(607)

5 大化の改新(645年):蘇我氏の一族を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と

             中臣鎌足(なかとみのかまたり)が倒す

 

飛鳥時代に限らず、古代(古墳時代~平安時代)は、

【「天皇」「摂関(側近)」「仏教」】

この3つのせめぎあいの視点で見るとだいたい分かる。