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織田信長(1534~82) 豊臣秀吉(1537~98) 徳川家康(1542~1616)
「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」(信長):レボリューション(革命)&イノベーション
「泣かぬなら泣かせてみようホトトギス」(秀吉):スピード&コミュニケーション
「泣かぬなら泣くまでまとうホトトギス」(家康):パーフェクトコントロール
豊臣秀吉(1537~98)・スピード&コミュニケーション!―「中学受験+塾なし」の勉強法!
豊臣秀吉(1537~98)の概略
豊臣秀吉は「スピード&コミュニケーション!」で大出世した男と言えるでしょう。
豊臣秀吉の人生を(年号の語呂合わせ込みで)まとめると以下のようになります。
「尾張中村の農民の出身で、関白・太閤(関白を辞めた人)まで出世した
稀有な人物。
織田信長(1534~82)の家臣の家臣の家臣くらいの足軽からキャリアを
スタートさせ、信長に見出されて大出世していきます。「寒い日に信長の
草履を懐で温めていた」というエピソードが有名ですね。気が利く人だっ
たのでしょう。
【名前の変遷:木下藤吉郎1→羽柴秀吉8→豊臣秀吉11(関白→太閤)】
信長と秀吉は年齢的に3歳しか違いませんし、主君・信長が「いちごパンツ」
(1582年)を履いた明智光秀11に裏切られて、京都の本能寺で非業の死を遂げ
るまで、秀吉はずっと信長の、「天下布武」 9の手伝いをしてきたと言えます。
信長の死後は、すぐに明智光秀を討ち、織田家の跡継ぎを決める清須会議を仕切り、
その後、織田家筆頭家老だった柴田勝家を賤ヶ岳の戦い11(しずがたけ)で破り、
天下統一に本格的に動き出します。家康とも戦います(小牧・長久手の戦い11)が、
引き分けに終り、この頃から「戦うより天皇の権威を利用して支配しよう」と考え
たのか、朝廷から「関白」の称号をもらい、それをもとに全国支配をすすめます。
家康も(形式的に)秀吉の臣下のようになります。最後まで服属しなかった、
小田原城の北条氏を倒し、1590年に全国統一を達成します。
秀吉は、朝鮮に二回も出兵します。二回目の出兵のさなか、秀吉は大坂城で亡くなります」
豊臣秀吉(1537~98)関連年表
【秀吉の天下統一の流れ】明智光秀討つ→織田家統一→大坂城→四国・九州・小田原
1537年:尾張中村に農民の子として生まれる。織田信長に仕え出世していく。
1582年:山崎の戦い9:京都の山崎天王山で明智光秀を破る→信長の後継者へ
1583年:賤ヶ岳の戦い11(しずがたけ):近江の賤ヶ岳(滋賀県長浜)で柴田勝家を破る。
1583年:大坂城11を作る(石山本願寺の跡地)→大坂はしばらく日本経済の中心になる。
1584年:小牧・長久手の戦い11:豊臣秀吉vs徳川家康。尾張の小牧・長久手。引き分け。
秀吉・関白に就任。朝廷から「豊臣」の姓を与えられる(豊臣秀吉)
1585年:四国平定10:長宗我部元親7は秀吉に降伏し、土佐(高知)一国のみになる。
惣無事令(そうぶじれい)11:大名間の私的闘争禁止令。「無事」=和平、和睦
1587年:九州平定9:薩摩の島津義久8を従わせた。島津家の薩摩支配は許される。
バテレン追放令11:九州平定後、博多で発令。
1588年:京都の聚楽第(じゅらくだい)11に後陽成(ごようぜい)天皇10を招く
(後陽成天皇(在位1586~1611)10:秀吉に豊臣姓を与える。後、家康を征夷大将軍に任命)
1590年:小田原攻め7:秀吉の全国統一完成。北条氏政8は切腹。「小田原評定」
奥州平定9:秀吉は小田原から奥州(会津)にいき、伊達政宗7に奥州を任せる
1592~93年:朝鮮出兵(一回目・文禄の役11)肥前(佐賀県)の名護屋城8を拠点に朝鮮に侵略
1597~98:慶長の役11(二回目の朝鮮出兵):戦いの途中で秀吉が死ぬ。
1598年:大坂城で死去。辞世の句「露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波の事も 夢のまた夢」
豊臣秀吉(1537~98)の政策3つ
●「太閤検地」「刀狩り」「キリスト教徒追放」●
出典:https://yamatake19.exblog.jp/21943114/
太閤検地11(天正の石直し7):秀吉の行った検地。
刀狩(1588年):兵農分離11と身分の固定(身分統制令・1591年)9をはかるため
バテレン追放令11:九州平定後、博多で発令。(バテレン=キリスト教宣教師)
秀吉の5大老と5奉行
●五大老9:有力大名が担う。徳川家康は五大老筆頭9。
●五奉行9:秀吉子飼いの側近。石田三成11が大事。
まとめ
以上、
豊臣秀吉(1537~98)・スピード&コミュニケーション!―「中学受験+塾なし」の勉強法!
でした。
(生来の)コミュニケーション力とスピード感を持って戦国時代を
疾走し、主君・信長のように部下に裏切られて殺される事もなく、
農民から天下統一し、関白(さらに太閤)まで大出世をし、天寿を全う?
したかに見える秀吉ですが、晩年はやや無謀な朝鮮出兵を二回も行い、
幼い息子・秀頼を頼むと泣きながら家康に頼んだとか・・・。
ただ、この辞世の句(死んだ時用の句)は個人的にしゃれてて好きです。
「露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波の事も 夢のまた夢」(豊臣秀吉)
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