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織田信長(1534~82) 豊臣秀吉(1537~98) 徳川家康(1542~1616)
「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」(信長):レボリューション(革命)&イノベーション
「泣かぬなら泣かせてみようホトトギス」(秀吉):スピード&コミュニケーション
「泣かぬなら泣くまでまとうホトトギス」(家康):パーフェクトコントロール
織田信長(1534~82)―「中学受験+塾なし」の勉強法!
天下布武の印章:出典 wikipedia
織田信長(1534~82)の概略
織田信長は「デストロイヤー」(破壊者)と言えます。
守護大名や、農民たちの土一揆や、長年力を持っていた仏教・僧兵や、出てき
つつあった商人(堺など)や、かろうじて生きながらえていた室町幕府(足利将軍)
などをすべて武力で叩き潰し、飲み込む魔王のような男。
おそらく、かなり合理的な性格の人物だったと思われます。
信長の49年の人生を(語呂合わせ込みで)まとめると以下のようになります。
「うつけ(バカ)と呼ばれた少年(幼名・吉法師)が、苦労して自分の国
(尾張・愛知)を統一し、奇跡的なデビューを桶狭間の戦い11(1560)で
果たし、「天下布武」 9を掲げ、一気にスターダムにのし上がり、デビュー
から20年強で天下統一するかに見えたところで、「いちごパンツ」(1582年)を
履いた家臣(明智光秀)に裏切られて、京都の本能寺で非業の死を遂げた。」
織田信長(1534~82)関連年表
織田信長年表
1534年 織田信秀3の長男として尾張(愛知県)に生まれる
尾張統一に苦労する。弟・信行を殺害
1560年(27歳)桶狭間の戦い11で今川義元11を破る(信長デビュー!)
1567年(34歳)美濃(岐阜県)を斎藤氏から奪い「岐阜」と改名。
「天下布武」 9の印を使い始める
(「天下布武」:「天下に武を布(し)く」=「武」で天下を統一する)
(以後戦いにつぐ戦いにつぐ戦いにつぐ戦い:ずっと戦ってます・・・)
1570年~80年 石山本願寺攻め10
1571年(37歳)(比叡山)延暦寺焼き討ち11
1571・73・74 長島一向一揆10や越前一向一揆8
1573年(39歳)室町幕府(足利義昭)を滅ぼす
1575年(41歳)長篠の戦い11で武田勝頼9を破る(足軽鉄砲隊8!)
1576年(42歳)安土城を築く(近江・滋賀県)
1582年(49歳)本能寺の変で明智光秀に破れ自害
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬ者のあるべきか」
(敦盛) あと1年、あと1年あれば・・・と思ったのでしょうか・・・。
中学受験に限らず試験上大事なのは、「大項目の細かい所」です。
例えば、「桶狭間の戦い」なら、「いつ?誰と?どこで?」等ですね。
そういった意味では、歴史の試験勉強の場合、「地図」と「年表」は必須です。
位置的な事で言うと、織田信長関連で大事な場所は上記の通りです。
なお、石山本願寺の跡地には、秀吉が大坂城を作っています。
織田信長(1534~82)の政策3つ
●「楽市楽座」「関所撤廃」「キリスト教保護」●
ここまで「戦い」を中心に織田信長を見てきましたが、「政策」的には以下の
●楽市楽座11:特権的な「座」(同業組合)を廃止。城下町の安土など。
●関所撤廃10:商業、交通が活発化
が大事です。自由に活動させ、能力ある人間に活躍を促し、社会全体を
発展させるという感じでしょうか。
やはり織田信長は非常に「近代的」「資本主義的」な人物ですね。
徳川家康の「パーフェクトコントロール」とは正反対です・・・。
●キリスト教を保護
石山本願寺(一向宗の中心)等、仏教勢力とは戦い続けるが、
南蛮(ポルトガル、スペイン)趣味・文化は好きで、キリスト教
を保護しました。新しいものが好きだったのかもしれませんね。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬ者のあるべきか」
(敦盛) あと1年、あと1年あれば・・・と思ったのでしょうか・・・。
信長がもし全国統一していたら、日本に200年早く近代が訪れて
いたかもしれません・・・。
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