ラクスマン(1792年)からペリー来航(1853年)までの江戸外交史

19世紀(1801~1900)前後になると、「鎖国」をしている江戸幕府にもだんだんと

諸外国が「開国」を要求してきます。ペリー(米)が来るまではロシアが北方に来ます。

政治史としては、寛政の改革~家斉の大御所時代~水野忠邦の天保の改革の頃です。

【ラクスマン(1792年)からペリー来航(1853年)までの江戸外交史の年表】

(松平定信の寛政の改革1787~93)

1792年:ロシアのラクスマン10が根室に来航(漂流民・大黒屋光太夫を連れてくる)

1799年:蝦夷地直轄9。幕府が1799東蝦夷地、1807西蝦夷地を直轄

1804年:ロシアのレザノフ10が長崎に来航して通商を要求:幕府拒否

1808年:フェートン号事件(イギリス):間宮林蔵が間宮海峡(樺太は島である事)を確認

1811年:ゴローニン事件7(ロシア):国後に上陸し捕らえられ箱館・松前で監禁

1825年:異国船打払令11:清・蘭以外の船はためらわず打ち払う(無二念打払令10)

1837年:モリソン号事件11(アメリカの船が、薩摩と浦賀で異国船打払令のため砲撃された)

    →高野長英、渡辺崋山がモリソン号事件を批判→蛮社の獄(1839年)

(1837:大塩平八郎の乱)

1841年:土佐の漁民・中浜万次郎(ジョン万次郎)が漂流。アメリカ船に救助される

(1841~43:天保の改革・水野忠邦)

1842年:薪水給与令(しんすいきゅうよれい)9:異国船打払令を緩和10

1844年:オランダ国王が開国勧告8

1846年:ビッドル(米)7が浦賀に来航:幕府拒絶

1852年:ジョン万次郎が土佐に帰国。坂本竜馬らに英学を教える。1860年の咸臨丸では通訳

1853年:米のペリーが浦賀に来航/露のプチャーチン

★幕府(日本)の対応★

文化の撫恤令 1806年 大御所時代(家斉)

異国船打払令 1825年 同上

天保の薪水給与令 1842年

1792年:ロシアのラクスマン11が根室11に来航(老中・松平定信の頃)

来航の目的は、エカチェリーナ2世7の命令で、漂流民の大黒屋光太夫(だい

こくや・こうだゆう)10らを日本に送り届けること。そして日本に通商を

求めることでした。

幕府は鎖国を理由に、通商を拒否。この時、ラクスマンは幕府から長崎

への入港許可書(信牌3)を受け取ります。

1804年:ロシアのレザノフ10が信牌を持って長崎に来航→幕府はこれを拒否。

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田沼意次いらいの蝦夷地開発計画11もあり、1799年には幕府は蝦夷地直轄を

します(東蝦夷地1799・西蝦夷地1807)が、1821年に松前藩に返します。

最上徳内10、近藤重蔵11らが、千島10や国後島9、択捉島9を探査。

1808年には、間宮林蔵が間宮海峡(樺太は島である事)を確認しました。

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1811年:ゴローニン事件7

ロシアの軍人・ゴローニンが国後に上陸し捕らえられ箱館・松前で監禁された

事件です。ロシアが仕返しに、淡路の廻船業者・高田屋嘉兵衛8を抑留しました。

どちらも釈放され、ロシアとの関係は良好に。

1825年には、異国船打払令11:清・蘭以外の船はためらわず打ち払う(無二念打払令10)

が出されます。

ただし、アヘン戦争(1840~42)などを見てビビッタ幕府は、水野忠邦が、

1842年:薪水給与令(しんすいきゅうよれい)9:異国船打払令を緩和10します。

ロシアはそれほど強硬ではなかったのでなんとか耐えましたが、それを見ていた

アメリカのペリーはかなり強硬で、1853年に浦賀に来航し、1854年には日米和親条約を

結ぶ事になりました。

ロシアもプチャーチン10が日露和親条約(1854)11を結んでいます。