奈良時代11:平城京11に都が置かれていた時代(710~784)
奈良時代は天皇と、側近(藤原不比等(外戚)、長屋王(天皇系)、藤原四子、
橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡)が交互に権力を持つ。また、仏教が強くなりすぎて、
国がぐちゃぐちゃになったのが奈良時代(例えば「道鏡」)。
【中学受験の場合、まずは「基本年表」「ポイントと大枠」を頭にいれ、その後に
個々の詳細に入っていく方が良いです】
奈良時代(710年~784年)の基本年表
受験対策としては、それぞれの事案と実行者が結びついている事が大事です。
(例えば、平城京遷都→元明天皇・藤原不比等/ 東大寺(大仏)→聖武天皇・行基/
墾田永年私財法→聖武天皇・橘諸兄)
710年平城京遷都(元明天皇・藤原不比等)
712年『古事記』ができる(元明天皇):『日本書紀』は720年
712年、713年:出羽国、大隅国の設置(元明天皇・藤原不比等)
729年長屋王の変(聖武天皇)
740年藤原広嗣の乱(聖武天皇・橘諸兄)
741年国分寺建立の詔・東大寺+大仏を作る(聖武天皇・橘諸兄)
743年墾田永年私財法(聖武天皇・橘諸兄)
752年東大寺大仏開眼供養(孝謙天皇・藤原仲麻呂)
754年鑑真(がんじん)が唐から来日
764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(淳仁天皇+仲麻呂vs孝謙上皇+道鏡)
766年道鏡が法王になる
奈良時代(710年~784年)のポイントと大枠
奈良時代(710~784)のポイント―政治(内政)・外交・文化
政治(内政):政治は安定せず。権力争いが続く。
・8世紀初め(元明、聖武天皇)東北や九州に領土を拡大:出羽国(でわのくに)・大隅国(おおすみのくに)
【天皇】元明天皇・聖武天皇
・元明天皇11(在位707~715):平城京遷都。和銅開珎11(708)。天智天皇の皇女(娘)。
・聖武天皇11しょうむ(在位724~749):仏教信仰。東大寺の大仏。天平文化11の黄金時代
【側近・外戚】藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡
・藤原不比等(ふひと659~720)11:中臣鎌足の子供。大宝律令・平城京遷都。娘が聖武天皇の后(外戚)
・長屋王11:藤原不比等の死後権力握るが、729年藤原四子10に滅ばされる。天智天皇の孫。
・藤原四子10:藤原不比等の4人の子供。
・孝謙天皇(在位749~758)かつ称徳天皇(在位764~770)・藤原仲麻呂・道鏡
・農民は租・調・庸に苦しみ、浮浪・逃亡する者も→墾田永年私財法11(743年)
公地公民(646年)→三世一身法(723年)→墾田永年私財法(743年)
外交
・遣唐使11:630~894。律令国家の政治・文化に貢献。菅原道真の進言で中止に(894年)。
【遣唐使語呂合わせ:630蒸される夜も吐く夜も894】【白紙894に戻そう遣唐使】
文化
・天平文化11:8世紀の文化。唐の影響大(国際的)。豪壮雄大。貴族的・仏教的。
平城京遷都は元明天皇
元明天皇11(在位707~715)が710年に平城京(奈良)11に遷都して、以降784年に
長岡京(京都市)にうつるまでの70年間が奈良時代11。
平城京11は、唐の長安10にならって東西南北に碁盤目状の道路が作られている。
日本最古の通貨:和銅開珎or富本銭
政治・内政としては、708年(元明天皇の時)に日本最古の通貨・和銅開珎(わどうかいちん)
11が作られるなど、貨幣経済が始まる。同時期に富本銭(ふほんせん)10と
言われるものがあり、どちらが最古かは論争中。
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木簡の使用が始まる
この頃から木簡11(文字を記した木札)が使われだす。
東北はvs蝦夷・九州はvs隼人
8世紀初め(元明、聖武天皇)東北や九州に領土を拡大する。
東北はvs蝦夷(えみし)11:エビスのなまり。ヤマト政権に服従しなかった東北の部族。
出羽国10(でわのくに):712年に設置。現在の秋田県・山形県。陸奥国と越後国
(712年は『古事記』成立と同じ年。全然違う事が同じ年にあると入試に出やすい)
多賀城11(たがじょう):宮城県多賀城市にあった城柵7。
鎮守府11(ちんじゅふ):蝦夷をやっつけるために陸奥国(むつのくに)に設置した役所
九州はvs隼人(はやと)10:薩摩・大隅地方の人たち。ヤマト政権に服従しなかった。
大隅国(おおすみのくに)10:713年設置。鹿児島県大隅半島辺り。
出羽国10(でわのくに) 大隅国(おおすみのくに)
実権は藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡
藤原不比等(659~720/中臣鎌足の子供)11が大宝律令・平城京遷都で
権力を発揮。娘が聖武天皇の后になり、藤原氏隆盛につながる。外戚。
ただ、藤原不比等の死後は、天皇系の長屋王(676~729)11が権力を握る。
が、729年藤原四子(しし)10に滅ばされる(長屋王の変7)。そして、藤原不比等の
娘・光明子(こうみょうし)11を聖武天皇の后(皇后)として外戚の地位を確立。
が、藤原四子も相次いで天然痘で死亡する。
藤原四子(しし)はそれぞれ四家に分かれる。北家(ほっけ)11が平安時代に隆盛。
藤原四子の死後、光明子(皇后)の異父兄の橘諸兄(たちばなのもろえ)11が政権
につき、墾田永年私財法(743年)を制定。
【公地公民(646年・孝徳天皇)→三世一身法(723年・長屋王)→墾田永年私財法(743年・橘諸兄)】
橘諸兄(たちばなのもろえ、684~757):藤原四子死後の738年右大臣。玄昉(げんぼう)11、
吉備真備(きびのまきび)11らを重用。ともに遣唐使。
橘諸兄や玄昉、吉備真備に対して藤原氏の藤原広嗣(ひろつぐ)11が九州の大宰府で
乱を起こす(藤原広嗣の乱11・740年)が負ける。聖武天皇はビビッて平城京を抜け
出したりして、仏教に頼ってなんとかしようとした(国分寺や大仏)。
聖武天皇11しょうむ(在位724~749)
聖武天皇11しょうむ(在位724~749)の時代に各地で凶作・災害などが起こり、
仏教の力で国を治めようとした。各地に国分寺11と国分尼寺(こくぶんにじ)11を
作らせた(国分寺建立の詔11・こくぶんじこんりゅうのみことのり・741年)
都(平城京)には東大寺(総国分寺)11を建て大仏(盧遮那仏るしゃなぶつ・
東大寺大仏)8を作った。行基(ぎょうき)11(渡来人系僧侶)が手伝う。
東大寺とその中にある大仏(「奈良の大仏」は室内にあるが鎌倉の大仏は屋外で座ってる、牛久の大仏は屋外で立っている)
聖武天皇はその間、都をいくつか移した。
【恭仁京(くにきょう)11→難波宮11→紫香楽宮(しがらきのみや)11】→平城京に戻る。
聖武天皇の遷都の流れ
752年に大仏開眼供養(かいげんくよう)10をしたのは孝謙天皇11こうけん(在位749~758)
孝謙天皇(在位749~758)・藤原仲麻呂・道鏡
孝謙天皇(在位749~758)かつ称徳天皇11(在位764~770)
女帝。藤原仲麻呂を用いる。一回天皇を淳仁天皇に譲り上皇
になるが、その後、僧の道鏡11とべったりになり、重祚(ちょうそ)して、
称徳天皇11(在位764~770)になる。
聖武天皇(在位724~749)は、自分の娘・孝謙天皇(在位749~758)
に譲位して上皇(天皇をやめた人)となる。
藤原不比等の孫・藤原仲麻呂11が実験を握り、不比等が編纂した「養老律令」9
(ようろりつりょう)を施行した。
藤原仲麻呂と対立したのが、橘諸兄の子である 橘奈良麻呂11 (たちばなのならまろ)
でクーデターを起こすが失敗(橘奈良麻呂の変10)。 藤原仲麻呂がさらに権力を
持つ。
その後、孝謙天皇が上皇になり、淳仁天皇(じゅんにん)11(在位758~764)
が藤原仲麻呂(「恵美押勝」11の名前を淳仁天皇からもらう)に推されて即位。
孝謙上皇に法相宗の僧侶・道鏡11が近づき、病気を治した事で信頼を得て、
恋仲に(どちらも生涯独身)。藤原仲麻呂に言われた淳仁天皇が「あまり
道鏡を寵愛しないでください」と進言すると、孝謙上皇がブチギレて、戦いに。
https://harunosuke-nihonshi.blog.ss-blog.jp/2016-02-12
764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱10
孝謙上皇は、吉備真備(きびのまきび)に藤原仲麻呂の退治を命じ、
近江(滋賀県)で倒し、仲麻呂は死亡。淳仁天皇は位を奪われ、
淡路島に流される。
孝謙上皇は重祚(ちょうそ)して、称徳天皇11(在位764~770)になる。
道鏡は大出世し、太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)10になり、
さらに766年には法王10になる。
現在の宇佐八幡宮
宇佐八幡神託事件(うさはちまんしんたくじけん)7
「天皇」の地位を望んだ道鏡は「(大分県宇佐市にある)宇佐八幡で
『道鏡』を天皇にするといいと神託をだしたで!」という形で【道鏡天皇】
を目指す。
称徳天皇は和気清麻呂(わけのきよまろ)8を使者に派遣して神託の是非を
確認。和気清麻呂は
「わが国は開闢(かいびゃく)このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、
いまだこれあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ、皇位継承のこと)は、必ず皇緒
(こうちょ)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
と『道鏡天皇』の神託を否定。
ぶちぎれた称徳天皇は和気清麻呂(わけのきよまろ)を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
と改名させ、大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県)に流罪にした。
(和気清麻呂がOKと言ったら「道鏡天皇」が誕生してたわけですね…)
天皇になれなかった道鏡は、称徳天皇11(在位764~770)の死後、光仁天皇
11(こうにん・在位770~781)によって、下野国(しもつけのくに・現在の
栃木県)に追放される。
遣唐使
遣唐使11:630~894。律令国家の政治・文化に貢献。菅原道真の進言で中止に(894年)。
663年 白村江(はくすきのえ)の戦い(日本・百済vs唐・新羅)から、30年ほどは
遣唐使は中断されていた。702年(大宝2年)に復活。
合計で15回渡海。最盛期には4隻500名(「よつのふね」)。
遣唐使の関連人物
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)5:帰国できず唐で死亡。
「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今和歌集・百人一首)
鑑真(がんじん)11:唐の僧。6回目の航海で日本に着く(753年)。盲目になる。
唐招提寺(とうしょうだいじ)10を建てる(759年)。平城京の一部。
鑑真和上像と唐招提寺
遣唐使は「北路」9と「南路」9があった。
奈良時代の庶民・農民
「公地公民」(大化の改新)が挫折していくのが奈良時代の土地税制
租(稲)・調(特産品)・庸(布か労働)や雑徭(労役)がきつい。
722年百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)10:口分田不足を補う
723年三世一身法(さんぜいっしんのほう)11:開墾したら3世代の土地私有が可能に
(この二つは「長屋王」の時代)
743年墾田永年私財法11:墾田の永久私有を認めた→有力者が私有地広げる→初期荘園10
(聖武天皇・橘諸兄の時代)
いずれにせよ、農民は苦しく、口分田11を捨てて、浮浪9(本籍離れるも所在は明確)、
逃亡11(行き先不明で租・調・庸を納めない)。荘園に流入した農民多数。
山上憶良(やまのうえのおくら)11(660~733):「貧窮問答歌」6(『万葉集』にある)
天平文化
天平文化11:8世紀の文化。唐の影響大(国際的)。豪壮雄大。貴族的・仏教的。
古事記・日本書紀⇒『記紀』4
・『古事記』(712年)11:神代から推古天皇までの天皇家の伝承・歴史書。物語的。
元明天皇に献上。稗田阿礼(ひえだのあれ)11が各地で聞いて覚えた。
太安万侶(おおのやすまろ)11が、それを書いた。
・『日本書紀』(720年)11:神代から持統天皇までの国家史。教科書的。
元正天皇の時。舎人親王(とねりしんのう)9等が編纂。編年体10で書かれている。
・『続日本紀』(797年)10(しょくにほんぎ):『日本書紀』の続編。文武天皇から桓武天皇。
奈良時代の基本資料。
『風土記』・『懐風藻』
・『風土記』(ふどき)11:713年。各国ごとの地誌・産物等。5カ国残っている。
―五風土記8
―『常陸国風土記』8ひたちのくにふどき
―『出雲国風土記』8いずものくにふどき
―『播磨国風土記』8はりまのくにふどき
―『豊後国風土記』8ぶんごのくにふどき
―『肥前国風土記』8ひぜんのくにふどき
・『懐風藻』11(かいふうそう):最古の漢詩集。751年。
万葉集
・万葉集11:770年頃。全20巻。日本最古の歌集。4500首。大伴家持11(おおとものやかもち)等
―長歌7:5・7を繰り返し、最後が5・7・7。260首。
―短歌7:5・7・5・7・7。4200首(ほとんどは短歌)。
―東歌(あずまうた)11:東国の民謡+短歌。素朴+いきいき。約240種
―防人歌(さきもりうた)11:親子・夫婦の別れを歌った
―万葉仮名(まんようがな)10:ひらがながないので、漢字の音訓で日本語をあらわす。
たとえば、「くらげ」は「久羅下」。一種の当て字。
「あ」には「阿」「安」「足」などが、「か」には「加」「迦」「柯」
・大伴家持11(おおとものやかもち):万葉集に最多の歌を残す(479首)。代表的な編者。
・山部赤人11(やまべのあかひと):自然を歌った歌が多い。
・山上憶良(やまのうえのおくら)11(660~733):「貧窮問答歌」6。人生、社会を歌った
仏教(国家仏教)関係
・国家仏教6:国家権力と結びついた仏教。鎮護国家10。戒律10
・南都六宗(なんとろくしゅう)10:奈良仏教。
―三論宗(さんろんしゅう)10
―成実宗(じょうじつしゅう)10
―法相宗(ほっそうしゅう)10
―倶舎宗(くしゃしゅう)10
―華厳宗(けごんしゅう)10
―律宗(りっしゅう)10
興福寺(こうふくじ)11 :中臣鎌足(藤原鎌足)→藤原不比等。藤原氏の寺。南都六宗の一つ
・東大寺(総国分寺)11:大仏(盧遮那仏るしゃなぶつ・東大寺大仏)8を作った。
行基(ぎょうき)11(渡来人系僧侶)が手伝う。
東大寺とその中にある大仏(「奈良の大仏」は室内にある)
―東大寺法華堂(ほっけどう)11:750年
―正倉院宝庫(しょうそういんほうこ)11:聖武天皇のゆかりの品(唐、インド、ペルシアのものも)がある。
校倉造9(あぜくらづくり):柱を使わず「井」の字に木材を組む。東大寺正倉院が最古で最大。
高床式倉庫。蘭奢待(らんじゃたい、香木)等。
唐招提寺(とうしょうだいじ):759年。鑑真(がんじん)11が建てる。奈良市。
鑑真(がんじん)11:唐の僧。6回目の航海で日本に着く(753年)。盲目になる。
―唐招提寺金堂11
―唐招提寺鑑真和上像11
鑑真和上像と唐招提寺
奈良時代の基本年表
710年平城京遷都(元明天皇・藤原不比等)
712年『古事記』ができる(元明天皇):『日本書紀』は720年
712年、713年:出羽国、大隅国の設置(元明天皇・藤原不比等)
729年長屋王の変(聖武天皇)
740年藤原広嗣の乱(聖武天皇・橘諸兄)
741年国分寺建立の詔(聖武天皇・橘諸兄)
743年墾田永年私財法(聖武天皇・橘諸兄)
752年東大寺大仏開眼供養(孝謙天皇・藤原仲麻呂)
754年鑑真が唐から来日
764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(淳仁天皇+仲麻呂vs孝謙上皇+道鏡)
766年道鏡が法王になる
まとめ―奈良時代(710年~784年)のポイントと大枠
奈良時代(710~784)のポイント―政治(内政)・外交・文化
政治(内政):政治は安定せず。権力争いが続く。
・8世紀初め(元明、聖武天皇)東北や九州に領土を拡大:出羽国(でわのくに)・大隅国(おおすみのくに)
【天皇】元明天皇・聖武天皇
・元明天皇11(在位707~715):平城京遷都。和銅開珎11(708)。天智天皇の皇女(娘)。
・聖武天皇11しょうむ(在位724~749):仏教信仰。東大寺の大仏。天平文化11の黄金時代
【側近・外戚】藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡
・藤原不比等(ふひと659~720)11:中臣鎌足の子供。大宝律令・平城京遷都。娘が聖武天皇の后(外戚)
・長屋王11:藤原不比等の死後権力握るが、729年藤原四子10に滅ばされる。天智天皇の孫。
・藤原四子10:藤原不比等の4人の子供。
・孝謙天皇(在位749~758)かつ称徳天皇(在位764~770)・藤原仲麻呂・道鏡
・農民は租・調・庸に苦しみ、浮浪・逃亡する者も→墾田永年私財法11(743年)
外交
・遣唐使11:630~894。律令国家の政治・文化に貢献。菅原道真の進言で中止に(894年)。
文化
・天平文化11:8世紀の文化。唐の影響大(国際的)。豪壮雄大。貴族的・仏教的。
奈良時代は天皇と、側近(藤原不比等(外戚)、長屋王(天皇系)、藤原四子、
橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡)が交互に権力を持つ。また、仏教が強くなりすぎて、
国がぐちゃぐちゃになったのが奈良時代(例えば「道鏡」)。