江戸時代②中期は「文治政治」:綱吉・新井白石の正徳の治 (この記事)
江戸の三大改革の語呂合わせ「きたか家斉!天保!」(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)+年表・江戸時代③
江戸時代は1603年~1867年と実に長いので、まずは概略を知って、
その後、詳細に入っていきましょう。
上記の「江戸時代の概略」がある程度分かったら、下記の詳細記事をどうぞ。
江戸時代②中期は「文治政治」:綱吉・新井白石の正徳の治(この記事)
江戸時代中期(4代~7代「文治政治」)の基本年表
1651年 由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱10:武断政治で急増した牢人11が反乱未遂
1657年 明暦の大火(振袖火事)10:以後、江戸城天守閣は再建されず
1680~1709 5代将軍・徳川綱吉の時代(元禄時代・元禄文化・生類憐みの令)
1701年 赤穂事件3(赤穂藩主の浅野長矩が吉良義央を江戸城中で切りつける)
1709~1716 新井白石の「正徳の治」:6代・家宣~7代・家継の時代
江戸時代中期(4代~7代は「文治政治」:綱吉・新井白石の正徳の治
「文治政治」は4代~7代
4家綱(在位1651~80):明暦の大火(振袖火事)10(以後、江戸城天守閣は再建されず)
5綱吉(在位1680~1709):生類憐みの令11(犬公方3)、元禄文化、儒学(朱子学)・湯島聖堂10
6家宣(在位1709~12):新井白石11を登用
7家継(在位1713~16):4歳で将軍!すぐ死ぬ。新井白石、間部詮房(まなべ あきふさ)9が補佐
「江戸時代中期」は(このブログでは)、4代目家綱~7代目家継の時代の
いわゆる「文治政治」11の時とします。
「文治政治」(4~7代)⇔「武断政治」(1~3代)
文治政治は、家康・秀忠・家光の1~3代の頃の武断政治とは
反対の見方です。
簡単に言うと、
文治政治は、儒教的な徳治主義で治める政治と考えてください。
(儒教の朱子学がポイントになります)
「武断政治」は力で押さえつける!でしたからね。
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ここまでが「基本」です。以下は「応用」ですので基本が頭に入ってから読んでください。
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4代目徳川家綱(在位1651~80)
4代目の家綱はそれほどメジャーではありませんが、5代目綱吉の前なので、
同じ「綱」で家綱と覚えてください。
家綱に関しては、
●1651年 由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱
●1657年 明暦の大火(振袖火事)10:以後、江戸城天守閣は再建されず
●殉死の禁11:主人の後を追うように自ら腹を切って死ぬことを禁止した
●末期養子の禁緩和11:牢人増加防止。死ぬ間際に養子をとっても良いとした
●江戸初期(家綱の頃の)三大名君
・保科正之(ほしなまさゆき)8:会津藩主。家綱を補佐。朱子学。
・池田光政9:岡山藩主。儒教に基づき藩を改革。治水、新田開発等。
・徳川光圀(みつくに)10:水戸藩主。『大日本史』。水戸学。水戸の黄門様
を覚えておけば良いでしょう。
5代目徳川綱吉(在位1680~1709):生類憐みの令(犬公方3)、元禄文化、儒学(朱子学)・湯島聖堂
3代将軍・家光の第4子で、5代目将軍の徳川綱吉(在位1680~1709)は、
もともとは、上野国(群馬県)館林藩主でした。
有名な将軍ですので、関係事案を詳細まできっちりと把握しておきましょう。
また、綱吉=元禄時代・元禄文化ですので、それもお忘れなく。
綱吉の「側用人政治」
●堀田正俊8:大老。綱吉を補佐するが、江戸城中で刺殺される
(堀田正俊の刺殺は大事件で、その後将軍は側用人11を重用)
●側用人11:将軍の側にいて、老中に将軍の命を伝える。
(綱吉→側用人(柳沢吉保)→老中)
●柳沢吉保(よしやす)11:綱吉の側用人として活躍。
綱吉は、動物大好き・学問大好き!
■生類憐みの令11:お犬様。犬公方。綱吉の死後すぐに廃止。
■儒教の朱子学を熱心に勉強:湯島聖堂10(孔子廟)。
綱吉は(儒教の租である孔子の)孔子廟を湯島に作ります(湯島聖堂10)
(今でもありますし、中にも入れます)
湯島聖堂(東京都文京区湯島)とその中にある孔子像(世界一大きい?)
●聖堂学問所7:林家の家塾。
朱子学のトップとして、林家(りんけ。個々の人は「はやし」)11が重用されます。
林羅山(はやしらざん)11:家康~家綱に仕える。林家の租。儒学者(朱子学者)
林鵞峰(はやしがほう)7:朱子学者。家光に仕える。
林信篤(はやしのぶあつ)11:家綱~9代まで仕える。湯島聖堂。大学頭(だいがくのかみ)10
朱子学や林家の官学化(国家の学問)の傾向を強めました。
綱吉は朱子学(儒教)を重視しましたが、お寺(仏教)も作っています。
今でもありますね。
護国寺5、寛永寺4(上野)、増上寺1(芝)。増上寺は徳川家の菩提寺です。
「あの鐘は芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」
元禄金銀10:貨幣の質を落として元禄小判を作った。
勘定吟味役8の萩原重秀9が主導。物価が高騰して大変な事に。
(萩原重秀は綱吉の死後、新井白石に追放される)
新井白石の「正徳の治」:6代・家宣~7代・家継の時代
新井白石11が6代将軍・家宣、7代将軍・家継を補佐して行った
政治を「正徳の治」(1709~1716)と言います。
【新井白石・正徳の治の詳細】
・朱子学を重視
・側用人の間部詮房(まなべ あきふさ)9が補佐
・閑院宮家9を設置:皇統の継承のため朝廷に新たな親王家(宮家)を創設することを提言
・朝鮮使節接遇問題7:朝鮮通信使(対馬藩経由で外交関係があった)の待遇を落とした。
・大君9:対外的な将軍の呼び名。後に元通り「将軍」に戻る
・正徳金銀8:(元禄金銀(元禄小判)→正徳金銀8)
・海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)9:長崎貿易の制限令。金銀流出を防止。
(まずは「概略」を理解してから詳細に入ってください)
江戸時代②中期は「文治政治」:綱吉・新井白石の正徳の治 (この記事)
江戸の三大改革の語呂合わせ「きたか家斉!天保!」(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)+年表・江戸時代③