徳川家康(1542~1616、将軍在位1603~05)・パーフェクトコントロール!―「中学受験+塾なし」の勉強法!

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徳川家康(1542~1616、将軍在位1603~05)・パーフェクトコントロール!

徳川家康(1542~1616、将軍在位1603~05)の概略

徳川家康の人生をそれぞれの時期に分けると以下になります。

人質時代(幼少期~1560年の桶狭間の戦い)

信長の同盟者(「弟」的立場)~~1582年本能寺まで

秀吉とのせめぎあい(小牧・長久手の戦い)→秀吉政権の5大老の筆頭

将軍(わずか3年。1603~05)

「大御所」1605~1616

「東照大権現」:死後は「神」として祀られた

徳川家康は我慢に我慢を重ねて天下人となり、「パーフェクトコントロール」

を敷いて、その後260年強続く江戸幕府の基礎を作ったと言えるでしょう。

74歳と長寿だった事も重要なポイントですね。

【名前の変遷:竹千代→松平元康→松平家康→徳川家康】

 

徳川家康は、1542年、三河(愛知県岡崎市)の岡崎城主・松平広忠の長男として

生まれました(ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える一年前ですね)。

幼名は竹千代で、元服後に松平元康となります。

幼少期は、尾張の織田信秀(信長の父)の人質となり、その後は

駿府(静岡県)の今川義元の人質でした(か、かわいそう)。

1560年、19歳の時に、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたために、

岡崎城に戻りました。ここでようやく人質生活が終了します。

1562年に織田信長と同盟を結びます。これは戦国時代としては極めて稀な事に、

終生破られる事のない本当の同盟でした。

信長と同盟を結んでいたので、姉川の戦い(信長・家康vs浅井長政・朝倉義景)や、

三方ヶ原の戦い(武田信玄vs信長・家康)、長篠合戦(武田勝頼vs信長・家康)等、

信長・家康連合軍でよく戦っています。

1582年に信長が本能寺で討たれた時、家康は(大坂の)堺にいて、命からがら

浜松城に逃げ帰ります。

その後、豊臣秀吉と戦いますが引き分けになります(1584年、小牧・長久手の戦い)。

秀吉が関白となり、三顧の礼を尽くしたので家康も軍門に下り、秀吉の天下統一と

なります。

1590年に秀吉が小田原攻めで北条氏を滅ぼし天下統一を果たすと、家康は、江戸に

移されます(秀吉は、家康を大坂、京都から遠ざけたかった?)。

その後は、秀吉が死ぬ(1598年)まで五大老の筆頭として活動します。

秀吉が死ぬと、天下への野心を表に出し始めます。

1600年関ヶ原の戦い:東軍(家康)vs西軍(石田三成)

ポイント!関ヶ原の戦い後も豊臣家(秀頼と淀殿)はまだ大坂城に健在です】

1603年征夷大将軍となり江戸幕府を開く(1605年に秀忠に譲り、大御所となる)

片方で江戸幕府の体制を固めつつ、もう片方で「いつ豊臣家を潰そうか」と

考えていたものと思われます。

受験勉強上のポイントは、徳川家康は1603年に征夷大将軍になり、1605年には

徳川秀忠に将軍職を譲っている事です。その後は大御所(将軍を引退した人)と

して実権を握っていました。

ですから、大坂の陣(冬が1614年・夏が1615年)も将軍は秀忠です。ただし、実質の

トップは当然「大御所」家康です。

また、有名な武家諸法度(1615年)も禁中並公家諸法度(1615年)も、

秀忠が将軍の時に出されています(おそらく実質はすべて家康がやったと思いますが)。

なんにせよ、最大の懸案だった西の豊臣家を滅ぼして、1616年に家康は死亡します。

死去した後は(地元静岡の)久能山に葬られ、翌年に有名な日光(栃木県)に改葬

されました。今でも日光東照宮は有名ですよね?家康が東照大権現としてまつられ

ているからです。

●関ヶ原の戦い(1600年):東軍・徳川家康vs西軍・石田三成

●大坂の陣(1614冬・1615夏):方広寺鐘問題6でいちゃもんをつけ開戦

家康の時代に幕藩体制の基礎(パーフェクトコントロール)は敷かれていたと言えるでしょう。

 

徳川家康(1542~1616、将軍在位1603~05)の年表

1542年 三河(愛知県岡崎市)の岡崎城主・松平広忠の長男として誕生

(幼少期は織田家と今川家の人質)

1560年 (桶狭間の戦いで今川義元が敗れたので)岡崎城に戻る

1562年 織田信長と同盟

1572年 三方ヶ原の戦い:武田信玄(甲州騎馬軍団)にあやうく殺されかかる大敗北

1575年 長篠の戦い:織田・徳川vs武田勝頼

1584年 小牧・長久手の戦い:秀吉vs家康

1590年 (秀吉の天下統一後)江戸に移される

1600年 関ヶ原の戦い

1603年 征夷大将軍(後陽成天皇が任命):江戸幕府

1605年 秀忠に将軍職を譲り、大御所となる

1614年 大坂冬の陣:大坂城の濠を埋める

1615年 大坂夏の陣:豊臣家滅亡/武家諸法度(1615年)禁中並公家諸法度(1615年)

1616年 死去。静岡の久能山→日光。東照大権現

 

徳川家康の外交:朱印船貿易

秀吉の頃から、政府(幕府)が発行した朱印状11を持った船による朱印船貿易11

が行われだしました。中国、東南アジアなどが相手国です(輸入:生糸、輸出:銀)

ただし、秀吉は晩年朝鮮出兵等、朝鮮や中国(明)との関係は悪くなります。

家康が平和外交をしたので朱印船貿易は徳川家光の時代・1635年まで続きました。

徳川家康の平和外交(南蛮人→紅毛人)

家康は秀吉と違い平和外交をしました。

1600年にオランダの船・リーフデ号10が豊後に漂着すると、

ウィリアム・アダムズ(三浦按針・あんじん/英国人)11とヤン・ヨーステン

(耶揚子・やようす/オランダ人)10を江戸に招いて外交・貿易顧問として

使いました。三浦按針は三浦半島に領地を与えられ、二人とも朱印船貿易に

従事し、長崎の平戸商館10設立に活躍しました。

【ポイント!江戸初期から南蛮人(ポルトガル・スペイン)→紅毛人(イギリス・オランダ)】

カトリックの南蛮人はキリスト教の布教もセットでしたが、紅毛人はプロテスタント

(イギリスは厳密には英国国教会ですが)なので、商売のみ!という事だったのでしょう。

なお、マカオ経由で中国産の生糸を持ち込み暴利をむさぼっていたポルトガル船に

対して、糸割符制度(いとわっぷせいど)8という生糸の輸入制限をしたのは1604年です。

朝鮮とは対馬藩の宗氏を通じて国交を回復し、1607年~1811年の間に

「朝鮮通信使」が12回来日しています。

「鎖国」完成前は、上記のように平和外交路線だった事もあり、日本人の

海外進出はさかんでした。

17世紀初期、ルソン(呂宋)11(現在のフィリピン)、アンナン(安南)9

(現在のベトナム)、シャム(現在のタイ)など、東南アジア各地に日本町8

が作られました。山田長政8などはシャムのアユタヤ王朝で大出世をしました。

禁教

諸国と貿易(マネ~マネ~!)はしたいが、同時にキリスト教の広がりも抑えたかった

家康(将軍は秀忠)は1613年禁教令(キリスト教禁止令)10を出しました。

その結果、貿易も徐々に管理貿易(鎖国)に向かっていきます。

 

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