明治時代②中盤(1870年代~1890年):自由民権運動→国会開設の勅諭・内閣・大日本帝国憲法(応用編)―中学受験+塾なしの勉強法

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明治時代③後半:日清戦争(1894~95)・日露戦争(1904・05)・日韓併合(1910)

明治の文化(文化史):思想・お雇い外国人・宗教・教育・文学

かならず、明治時代(1868年~1912年)の概略を先に読んで、基本をつかんでから

詳細に入っていってください。

 

明治時代中盤(1877~1890)の流れ:自由民権運動→国会開設・内閣・大日本帝国憲法

明治時代は45年でしたね?

「武士」の消滅→国会作ります!帝国憲法→日清・日露戦争

(その間ずっと「富国強兵・殖産興業・西洋化(文明開化)」

これが基本の流れです。

●富国強兵:明治初期のスローガン。経済発展+軍事力強化。欧米に追いつけ追い越せ。

●殖産興業:近代的産業育成の政策。国主導の資本主義化。内務省と工部省が中心。

●西洋化・文明開化ざんぎり頭ガス灯牛鍋レンガ造り(銀座)人力車鉄道馬車

明治時代中盤(1877年頃(明治10年)~1890年頃(明治23年頃)は、

【自由民権運動→国会開設の勅諭(1881)→内閣(85)→大日本帝国憲法(89)】

この流れを抑えましょう。内閣制度ができ、憲法もでき、議会が開かれるという

近代国家の仕組みが進んだのですが、実際に政治を支配しているのは

(非公式の立場の薩長の重鎮である)「元老」(山県有朋とか黒田清隆とか

松方正義とか)だったりします・・・。

「憲法」や「議会」があるのに、なぜか超法規的な立場の人が牛耳っている

という状況です。つまり、民主的でも立憲主義的でもない「薩長藩閥政治」

です。それへの不満が、大正時代の「第一次護憲運動」「大正デモクラシー」

につながっていきます。

 

(明治前半には「不平士族」が反乱を起こしましたが、明治中盤には、資本主義

の流れに取り残されつつあった、農民が各地で反乱を起こしました)

 

1873年征韓論→明治6年の政変→西郷、板垣が下野(明治政府から離れる)

1874年民選議院設立建白書(自由民権運動):板垣

1877年西南戦争:西郷

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【自由民権運動】(1870年代~1880年代)

・(土佐藩出身で明治6年の政変で下野した)板垣退助の民撰議員設立建白書(1874年)が中心

国会開設、憲法制定などを要求した運動

・(薩長による)「藩閥政治」を批判

・政府から弾圧され、次第に衰退

【板垣退助】(1837~1919)

土佐藩出身。征韓論で敗れて下野(明治6年の政変(1873年))。

1874年民撰議員設立建白書を同じ土佐出身の後藤象二郎等と提出。

立志社愛国社(1880年国会期成同盟)を設立(こういった団体を政社・結社といいます)。

1875年(明治8年)の「大阪会議」で政府に復帰。

(政府は集会条例(1880年)などでこれらの自由民権運動を規制)

1881年(明治14年)(国会開設の勅諭→)「自由党」結成。

第2次伊藤博文内閣(1892~96)では内大臣

(第一次)大隈重信内閣(1898年)でも内大臣。「隈板(わいはん)内閣」と呼ばれる

有名な「板垣死すとも自由は死せず」のセリフは、1882年・自由民権運動中に岐阜で

暴漢に襲われた際のものと言われる(その時は死なずに、以降も活躍した)。

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明治時代の前半(応用編)にまとめましたが、明治10年(1877年)頃までは、新しい

国づくりを着々と進め(1869年版籍奉還→1871年廃藩置県)、その過程で切り捨てられ

た「士族」(江戸時代の「武士」たち)が「不平士族」となっていった時代でもあります

(1873年徴兵令・1876年廃刀令、秩禄処分)。

その結果、九州(と旧長州藩)で、佐賀の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争といった

士族の反乱が起こり、すべて明治政府に鎮圧されて、「武士」たちは消えていきました

同じ「不平士族」たちの、もう一つの流れが、西郷隆盛と同じく、「明治6年の政変」

で下野した板垣退助を中心とした「自由民権運動」でした。

(色々ゴタゴタはあったものの)

1881年に「10年後に国会を開く」と約束し(国会開設の勅諭)

1885年に内閣制度ができ

1889年に大日本帝国憲法ができました。

(国会開設の勅諭と大日本帝国憲法の語呂合わせ:はい(1881)約(1889)束守ったよ)

明治時代中盤は、

【自由民権運動→国会開設の勅諭(1881)→内閣(85)→大日本帝国憲法(89)】

このラインがポイントになります。

 

明治時代中盤(1877~1890)の年表

(1873年:明治六年の政変:岩倉使節団帰国→征韓論で対立→西郷隆盛、板垣退助等が辞める)

1874年(明治7年)民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)板垣退助。自由民権運動へ

1875年(明治8年)大阪会議。板垣退助と木戸孝允が政府に復帰(立憲政体樹立の詔

(国会開設の勅諭と大日本帝国憲法の語呂合わせ:はい(1881)約(1889)束守ったよ)

1881年(明治14年)開拓使官有物払下げ事件国会開設の勅諭明治14年の政変

板垣退助が「自由党」(フランス流急進)を結成

(各地で私擬憲法(憲法草案)が作られる)

(農民反乱など:1882年福島事件、1884年秩父事件、1885年大阪事件

1882年(明治15年):(下野した)大隈重信が「立憲改進党」(イギリス流穏健)を結成

松方財政→松方デフレ→1884年の秩父事件など)

1885年(明治18年):内閣制度が始まる(太政官制は廃止)。初代内閣総理大臣・伊藤博文

1889年(明治22年):大日本帝国憲法の発布

1890年(明治23年):第一回衆議院議員選挙→第一回帝国議会

開拓使官有物払下げ事件→国会開設の勅諭→明治14年の政変

(追記:2023年4月12日の朝日新聞によると、

「五代友厚は官有物払い下げ事件に関与した明確な証拠がない」

という事で、2023年春の教科書から修正されたとの事です。

となると、まともな中学校であれば、社会科の先生はその点をきちんと

おさえているでしょうから、

「薩摩の黒田清隆が同じ薩摩の五代友厚に官有物を格安で払い下げた」

というこれまでの歴史の定説が修正された前提で問題を作るでしょう。

教え方・覚え方を変えないといけませんね)。

1881年(明治14年)、(後に2代目総理大臣となる)北海道開拓長官・黒田清隆が、

同じ薩摩藩出身の政商(政治と結びついた商人)五代友厚(ごだいともあつ)9に、

(上記の追記参照。現在は五代友厚は関係があったかどうか不明という事になっています)

開拓使の官有物を格安(1500万円相当を38万円・30年払い・無利息!ほぼタダやん

け!癒着や!)で払い下げようとした事が明るみに出ます(開拓使官有物払下げ事件)。

世論は怒り、払下げは中止となりました。

世論をなだめるために、伊藤博文らが天皇に勧め、「国会開設の勅諭」

出されました。内容は「1890年までに国会を開く事を公約する」というものでした。

政府内で、大隈重信(肥前藩。東京専門学校(早稲田大学)を作った人)、国会

開設や憲法について急進的な意見を言ったので、「官有物払下げ事件をマスコミに

漏らしたのは大隈重信だ」的な事で政府を追放されました。これを

明治14年の政変と言います。

【語呂合わせ:1881~89国会と憲法はいやくそく守ったよ】

1885年には内閣制度が始まります。

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初代内閣総理大臣・伊藤博文(長州藩)、2代目黒田清隆(薩摩藩)

ほとんどの大臣は、薩長出身の薩長藩閥政府。

【(明治の)内閣制度のポイント】

・内閣制度ができて太政官制は廃止

内閣総理大臣は天皇が指名(そもそも元老が天皇に総理大臣を推薦するので、元老が権力持つ)

・内閣は「府中」といわれ、「宮中」と区別された

・内閣は(議会に対してではなく)天皇に対してのみ責任を負う

内大臣:宮中と府中の別をきっちりするために設置。最初は三条実美

 

1889年(明治22年):大日本帝国憲法

1890年(明治23年):第一回帝国議会(国会):貴族院と衆議院

憲法(大日本帝国憲法と日本国憲法)

【大日本帝国憲法の特徴・ポイント】

欽定憲法(きんていけんぽう):主権者である天皇が制定した憲法

主権:天皇

・天皇の立場:君主+元首

手本:ドイツ(プロシア)の憲法

伊藤博文が中心に作った。発布時の総理大臣は2代目の黒田清隆

軍事:天皇が統帥権(とうすいけん)と言われる軍隊の指揮権を持つ

・基本的人権:臣民(天皇以外の国民)の権利は法律の範囲内で保障

・義務:納税、兵役

【大日本帝国憲法の具体的条文】

第1条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す

第3条 天皇は神聖にして侵すべからず

第11条 天皇は陸海軍を統帥す

私擬憲法(憲法草案):民間の政社、結社などで作られた憲法案。1880~81頃★

 

1880年代前半:松方財政→松方デフレ→1884年の秩父事件

話は少し戻って1880年代前半。松方正義が大蔵卿をやっていた時代の

財政を『松方財政』と言います。

紙幣整理(1881年)・日本銀行(1882年)設立

厳しい緊縮財政が松方デフレと呼ばれる不況を招き、農民を直撃しました。

その結果起こったのが、

福島事件(1882年)、加波山事件(かばさん・茨城県にある山・1884年)

秩父事件(1884年・困民党9)、大阪事件(1885年)

などの農民反乱や自由民権運動復活の動きです。

まとめ

明治時代中盤(1877年頃(明治10年)~1890年頃(明治23年頃)は、

【自由民権運動→国会開設の勅諭(1881)→内閣(85)→大日本帝国憲法(89)】

この流れを抑えましょう。内閣制度ができ、憲法もでき、議会が開かれるという近代国家の

仕組みが進んだのですが、実際に政治を支配しているのは(非公式の立場の薩長の重鎮で

ある)「元老」だったりします・・・。

元老:天皇に総理大臣を推薦したり、とにかくこの人たちが絶大な権力を持っていました。

ほぼ薩長の有力者です。黒田清隆・伊藤博文・山県有朋・松方正義などです。

特に山県有朋(1838~1922、長州)は陸軍を支配し、元老としてかなり長い間、

実験を握っていました。

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