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明治時代の前半:1868~1877・戊辰戦争から西南戦争まで(応用編)
明治時代②中盤(1870年代~1890年):自由民権運動→国会開設の勅諭・内閣・大日本帝国憲法
明治時代③後半:日清戦争(1894~95)・日露戦争(1904・05)・日韓併合(1910) この記事
いくやまいまい、おおやいか、さかさか(明治時代の総理大臣の名前:語呂合わせ)
大正時代(1912年~26年)の概略(基本編):大正デモクラシーと第一次世界大戦(1914~1918)
かならず、明治時代(1868年~1912年)の概略を先に読んで、基本をつかんでから
詳細に入っていってください。
明治時代③後半:日清戦争(1894~95)・日露戦争(1904・05)・日韓併合(1910)の流れ
明治時代②中盤(1870年代~1890年):自由民権運動→国会開設の勅諭・内閣・大日本帝国憲法
にまとめましたが、
【自由民権運動→国会開設の勅諭(1881)→内閣(85)→大日本帝国憲法(89)】
この流れで、憲法ができ、1890年に第一回帝国議会が開かれ、日本も立憲主義の国と
してのスタートを切ったのが、明治時代の中盤でした。
明治時代の後半(1890年代~1910年頃)は、
●産業革命:(日清戦争頃に)軽工業→(日露戦争頃に)重化学工業
●戦争:日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)、(1910年日韓併合)
●条約改正:領事裁判権撤廃(陸奥宗光外務大臣・1894年・英)、関税自主権回復(1911年・小村寿太郎・米)
この3点がポイントです。
明治時代後半(1890~1912)の年表
1889年(明治22年):大日本帝国憲法の発布
1890年(明治23年):第一回衆議院議員選挙→第一回帝国議会
1891年(明治24年):大津事件(ロシアの皇太子が巡査に切りつけられる)
1894年(明治27年):日英通商航海条約(英/陸奥宗光/領事裁判権撤廃)
(甲午農民戦争⇒)日清戦争
1895年(明治28年):下関条約(陸奥宗光、清・李鴻章)→三国干渉(露、仏、独)
1898年(明治31年):(第一次)大隈重信内閣(隈板内閣)。初の政党内閣。
1900年(明治33年):選挙権の直接国税15円→10円になる/軍部大臣現役武官制
1901年~1913年:桂園時代(桂太郎と西園寺公望。かさかさか)
1901年(明治34年):田中正造11が足尾鉱毒事件11を明治天皇に直訴
八幡製鉄所11が操業開始
1902年(明治35年):日英同盟(1921年四カ国条約11で日英同盟廃棄11になります)
1904年(明治37年):日露戦争(旅順要塞、奉天会戦(05年)、日本海海戦(05年))
1905年(明治38年):ポーツマス条約(小村寿太郎、露・ウィッテ、米・セオドア・ルーズベルト)
1909年(明治42年):(満州の)ハルビンで伊藤博文が(朝鮮の)安重根に暗殺される
1910年(明治43年):日韓併合/ 大逆事件11
1911年(明治44年):日米通商航海条約(米・小村寿太郎・関税自主権回復)
1890年(明治23年):第一回衆議院議員選挙→第一回帝国議会
1889年に大日本帝国憲法ができて、翌1890年第一回帝国議会(衆議院と貴族院)
が開かれました。
当初の選挙権は「満25歳以上の男子+直接国税15円以上」という条件がある
制限選挙でした。選挙制度・選挙権の歴史
1890年の第一議会から日清戦争直前の第六議会までを「初期議会」11と言います。
薩長の藩閥政府vs民党11(野党勢力。立憲自由党と立憲改進党)の構図です。
1891年(明治24年):大津事件(ロシアの皇太子が巡査に切りつけられる)
日本がイギリスと不平等条約の改正を進めているさなか、滋賀県の大津を訪問中の
ロシアの皇太子(後のロシア帝国最後の皇帝・ニコライ二世)が、日本人の巡査に
切りつけられるという事件が起こりました(大津事件11・ロシア皇太子傷害事件8)。
近代国家としてはあるまじき事として、政府は大慌てとなり、外務大臣の青木周蔵10
は辞任しました。悲願の(不平等)条約改正が少し遅れることになりました。
1894年:日英通商航海条約・領事裁判権の撤廃
1894年(明治25年)、日本は幕末以来の悲願だった不平等条約の改正に
一部ではありますが成功します。
【1894年日英通商航海条約11:英・陸奥宗光/領事裁判権撤廃】
・領事裁判権の廃止
・関税自主権の一部回復
・相互的最恵国待遇
【明治政府の悲願「不平等条約改正」の流れ】
1858年日米通商修好条約。安政の五カ国条約(あおいふろ・米蘭英仏露)
↓
1871年(明治4年)岩倉使節団:条約改正できず
↓
井上馨(かおる)の鹿鳴館外交、大隈重信などが外相の時に改正交渉するがうまくいかず
↓
青木周蔵(外相):英と領事裁判権撤廃成立しかけるが1891年大津事件で辞任
↓
1894年:陸奥宗光(外相)が日英通商航海条約で領事裁判権撤廃
↓
1911年(明治43年):小村寿太郎(外相)が米と条約改正(関税自主権を回復)
1894年(明治25年)(甲午農民戦争⇒)日清戦争
イギリスとの条約改正と同じ時に起こったのが「日清戦争(1894~95)」です。
魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国、横どりをたくらむロシア(ジョルジュ・ビゴーの風刺漫画)
その前に、日清戦争の前の話を少々。
【日清戦争(1894年~95年)前史】
日清戦争(1894年~95年)の前ですから、明治初期~1880年代くらいの事です。
そもそも、朝鮮半島は李氏朝鮮(1392~1897)がずっと支配していました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・(李氏)朝鮮:清(中国)の属国のような立場。清は「子分」としてそのままにしたい
・ロシアが朝鮮半島や遼東(りょうとう・リャオトン)半島を狙っている
・日本は、露も怖いし、朝鮮を手に入れたい
・朝鮮内部では「保守派」(清寄り)vs「改革派」(日本寄り)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
上記のような状況から、清(中国)vs日本が朝鮮半島を巡って争っていました。
朝鮮内部では、清の子分としてやっていこう(保守派)と(明治維新をまねて)
日本のように近代化しようという改革派が争っていました。
1882年「壬午軍乱」(じんご)9(漢城・現在のソウルで起こった保守派がクーデター)
1884年「甲申事変」(こうしん)10:漢城で起こった改革派のクーデター
朝鮮は自分ではおさめきれず、親分である清に鎮圧してもらいます。
日本にとっては、親日派(改革派)の甲申事変が鎮圧されて、朝鮮進出が遅れました。
日本と清は「天津条約」(1885年)11を結び、とりあえず朝鮮半島からひきます。
(朝鮮半島からの撤兵+出兵時には事前に通告するという約束)
【日清戦争(1894年~95年)の経緯】
朝鮮半島で甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)11という農民反乱が起こり、
朝鮮は清(中国)に援軍を依頼します。
清が出兵すると、日本は天津条約(1885年・出兵時には事前通告する)に基づいて
朝鮮に出兵します。
はい、朝鮮半島に日清の兵隊が同時に存在し、いつ戦争が始まるか分からない状態に
なりました。甲午農民戦争が終息した後も日清両軍はひきあげず、日清戦争が勃発
する事になりました。
日清戦争の具体的展開:日本が圧勝
・朝鮮半島+遼東半島(旅順・大連)を制圧
・豊島沖海戦10、黄海の海戦11
・山東半島の威海衛(いかいえい・清の海軍の拠点)
下関条約(1895年)の内容→三国干渉
・日本全権:伊藤博文、陸奥宗光/ 清全権:李鴻章(りこうしょう)11
・朝鮮の独立を認める:清との親分子分関係消滅。日本進出しやすい
・遼東半島11、台湾11、澎湖(ほうこ)諸島(台湾の西にある島)11を日本に割譲
・賠償金2億両(テール):約3億1000万円。国家予算の3~4年分
・(長江沿いの)重慶、沙市(さし)、蘇州、杭州を日本に
日本にしてみれば、明治政府として初の本格的戦争で圧勝し、多額の賠償金や領土を
取り、朝鮮半島へのあしがかりもつけられて万々歳でした。
が、そこにとつぜん「ロシア・フランス・ドイツ」が口を出してきます(三国干渉)。
「ジャパンさん、遼東半島は清にかえしてくださ~い」
といってきたわけですね。ロシアはずっと不凍港である遼東半島を狙っていました。
日本は露・仏・独の圧力に負け、お金をもらい遼東半島を清に返します。
当然、日本国内でのロシアに対する反発は高まり、「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)10
を合言葉に(伊藤博文等が煽った)後の日露戦争に向かっていくことになります。
1901年(明治34年)~1913年(大正2年):桂園時代(桂太郎と西園寺公望。かさかさか)
20世紀に入ると、いわゆる「桂園時代」(けいえんじだい)11がやってきます。
長州出身の桂太郎と公家出身で立憲政友会の西園寺公望が交互に
首相を務めた時代で、藩閥勢力が強く、後の第一次護憲運動につながっていきます。
いくやまいまい、おおやいか、さかさか(明治時代の総理大臣の名前:語呂合わせ)
大正時代(1912年~26年)の概略(基本編):大正デモクラシーと第一次世界大戦(1914~1918)
1901年(明治34年):田中正造11が足尾鉱毒事件11を明治天皇に直訴
日清戦争(1894~95)後、軍備拡張に拍車がかかり、日清戦争の賠償金を元手に、
官営の八幡製鉄所が1901年(明治34年)に操業を開始します(現・北九州市)。
大規模な産業革命(軽工業が日清戦争の頃、重化学工業が日露戦争の頃)は、同時に
環境汚染ともつながっていました。
栃木県の渡良瀬川10流域にあった足尾銅山11で、銅山の開発により有害物質が周辺環境
に著しい影響をもたらし、衆議院議員であった田中正造11が中心となり明治政府に
問題提起をしました。しかし、政府は真剣に向き合ってくれず、ついに1901年、田中正造
は議員を辞任して天皇に直訴するという事件に発展しました(足尾鉱毒事件)。
1902年(明治35年):日英同盟
(話は少し戻って)日清戦争後の三国干渉(1895年)で、遼東半島を清に返還
させられた日本は、「臥薪嘗胆」10を合言葉に「ロシア憎し」で固まっていました。
日本国内には「ロシアと折り合いをつけて戦争を回避」する派と、「イギリスと
連携して、ロシアの南下を防ぎ戦争や!」という派がいましたが、ロシアははなから日本
と仲良くする気がなく、イギリスはロシアの南下を日本を使って防ぎたいと考えていました。
そんな時、清(中国)で義和団の乱7という民衆反乱が起こり、英・米・仏・日・独・などの
連合軍が出兵して鎮圧(北清事変11)。
ロシアは北清事変後も、満州の占領を続け、これが日英同盟(1902年)→日露戦争(1904~5)
の直接の契機になりました。1902年に日英同盟11。
(なお、その後、太平洋戦争(1941~45)では「鬼畜米英」となるわけですが、日英同盟は、
第一次大戦後の1921年の四カ国条約で廃棄となります(日英同盟廃棄11))。
1904年(明治36年)~05年:日露戦争(旅順要塞、奉天会戦(05年)、日本海海戦(05年))
1904年についに日露戦争が勃発します。前評判はロシアが優勢でしたが、日本軍の
頑張りと、ロシアで革命(第一次ロシア革命)が起きたことで、日本の辛勝となりました。
●旅順占領8:1904年。203高地。乃木希典。ロシア太平洋艦隊の基地だった。
●奉天会戦10:1905年。南満州(今の瀋陽)。日露陸軍の大激突。日本辛勝。
●日本海海戦11:1905年。ロシアのバルチック艦隊を日本が奇跡的に倒す。東郷平八郎。
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与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」7
雑誌『明星』に発表した反戦詩。旅順の戦いに弟が参戦していた。
「君死にたまふことなかれ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
(略)
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ」
、
*なお、与謝野晶子の弟は無事に旅順の戦いから生還したそうです
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本は戦費を使いきり、ロシアは国内で革命が起こり、どちらも
「もう戦いたくない」という状態でした。強いて言えば日本の判定勝ち。
そこで、小村寿太郎(外相)を通じてアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルト
に仲介を依頼し、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれました(ポーツマス条約)。
【ポーツマス条約】(1905年)
・日本全権:小村寿太郎/ロシア全権:ウィッテ(orヴィッテ)(仲介:セオドア・ルーズベルト)
・日本の韓国に対する指導権・監督権をロシアは認める
・(遼東半島の)旅順と大連の租借権11を日本に認める
・長春~大連の鉄道の利権11を日本に認める
・北緯50度以南の樺太(サハリン島)11を日本に譲渡
・沿海州、カムチャッカの漁業権9
・賠償金はなし(0円)→日比谷焼き討ち事件11
いずれにせよ、日露戦争の結果、韓国は日本の勢力化に入りました。
1910年(明治42年):日韓併合/ 大逆事件
韓国11:1897年~1910年の朝鮮の国号(正式には大韓帝国11)
1904年:日韓議定書9、第一次日韓協約11
1905年:第二次日韓協約11→韓国を保護国化10
1907年:ハーグ密使事件(ハーグバンコク平和会議)→第三次日韓協約11(韓国軍隊を解散)。
日露戦争頃から、日本は韓国を保護国として、統監府11を置きました。
韓国国内では義兵運動11など反日運動が起こりますが、日本が鎮圧。
1909年:伊藤博文暗殺事件9:満州のハルビン駅で安重根(あんじゅうこん)に暗殺される
1910年(明治42年)韓国併合11:韓国を植民地化(1945年まで)。
韓国併合条約10後は、朝鮮総督府11を置き、京城(現・ソウル)10を拠点に支配。
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★大逆事件(1910年)★11
「明治天皇暗殺計画」を立てたという理由で、12名が死刑となった事件。
以後、社会主義運動は低迷し【冬の時代】10と言われた。
元老の山県有朋が社会主義運動鎮圧のために、やや「無理やり」主導して
死刑にしたと言われている。
幸徳秋水11、管野スガ(かんの)3等が死刑になった。
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(関連記事)
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明治時代②中盤(1870年代~1890年):自由民権運動→国会開設の勅諭・内閣・大日本帝国憲法
いくやまいまい、おおやいか、さかさか(明治時代の総理大臣の名前:語呂合わせ)
大正時代(1912年~26年)の概略(基本編):大正デモクラシーと第一次世界大戦(1914~1918)
かならず、明治時代(1868年~1912年)の概略を先に読んで、基本をつかんでから
詳細に入っていってください。